メイコちゃんに弟ができて数ヶ月。
冬仕様だったパソコンの壁紙も夏の湖畔の風景に変わり、家の窓からは夜風に揺れている木々が見えます。
梢と一緒に体を揺らしながら、メイコちゃんはお風呂に入る準備をしていました。
用意した着替えは、上は半袖、下は七分丈のパジャマです。
以前はキャミソールとホットパンツだけで寝ていたのですが、カイト君と一緒に眠るようになって以来、「薄着は良くないよ。俺、寝ぞう悪いからフトンひとり占めにしちゃうかもしれないし」と言われて着るようになった服でした。
そういえば、カイト君はたまに床で寝ていることがあります。
彼こそ寒くないのでしょうか。
そんなことを考えながら、メイコちゃんは服を脱いで、くもりガラスのドアを勢い良く開きました。

「カーイトー、アヒル隊長忘れてるわよー?」
「姉さんタオルっ! タオル巻いてお願い!」

そして今日もまた、狭い浴室にカイト君の悲鳴が響くのでした。

おとうとくん、がんばってます


「姉さん、話があるんだけど」

唇をぎゅっと引き締めて、カイト君はメイコちゃんを呼びました。
夜の湖を眺めていたメイコちゃんは「なぁに?」と返事をしながらリビングの窓を閉め、カイト君の前にとてとてやって来ました。
くるんとした瞳で見上げてくるメイコちゃんを見つめ、カイト君は大きく深呼吸をします。
今からしようとしている話は、ひょっとしたらこの明るい瞳をくもらせてしまうかもしれないからです。

「あのね」
「うん、どうしたの?」

こくん、と首を傾げるメイコちゃん。
彼女の持っているアヒルに目を落として、カイト君は口を開きました。

「姉さん、俺、明日からは自分だけで風呂に入ろうと思うんだ」

え、という小さな声。
困惑したような、傷ついたような呟きにいたたまれなくなり、カイト君は慌てて言いつのります。

「ほら、この家に来てだいぶ経つし、いろいろ一人でできるようになりたいんだ。俺も姉さんと一緒じゃないのは寂しいし不安だけど、だからこそ頑張らなきゃっていうか、その、ええと」
「……そっか」

わかったわ、とメイコちゃんは頷きました。
項垂れると表現する方が正しいような頷き方でしたが。
しゅんとした彼女は、うつむいたまま、カイト君に両手を差し出しました。
その手には、黄色いアヒルのおもちゃがのっていました。

「いきなり一人ぼっちじゃ寂しいよね。隊長と一緒なら平気なんじゃないかしら」

手渡されたアヒルを受け取るカイト君もまた項垂れていました。
でも、どうしても必要なことなのです。

「……それから、寝る時も。一人で寝るようにしようかなって」

思うんだけど。
最後の方は殆ど声になりませんでした。
それでもボーカロイドであるメイコちゃんの耳にはしっかりと聞こえました。
一瞬震えた唇と、目のふちに浮かんだ水滴を隠すように、彼女はカイト君に背を向けました。
波立った気持ちを必死で静めようとして、小さな肩が強張っています。
浅く短く吐き出した息には、涙の気配が混じっていました。

「ちょっと、そこにいて、ね?」

どこかおぼつかない足取りでリビングを出ていく後姿は、今まで見たことがないほど沈んでいます。
あまりの落ち込み様に、カイト君はさっき言った言葉を取り消したくなりました。
駆け寄って嘘だよと言えば、メイコちゃんは笑ってくれるでしょう。

自分さえ我慢すれば。
『姉さん』がいなきゃダメだと言えたら。

何度も何度も思いましたが、メイコちゃんの『弟』であり続けるためには、今のままの距離ではいられないのです。
だから、これは仕方のないこと。必要なこと。
自分自身に言い聞かせながら、カイト君は戻ってきたメイコちゃんに無理矢理笑ってみせました。
メイコちゃんもまた、なんとか笑おうとして、でもやっぱりそれは難しくて、すぐに下を向いてしまいました。
視線を合わせられないまま、メイコちゃんは再びカイト君に何かを差し出しました。

「師匠もあげるね。きっと怖い夢も見ないよ」

それはマイクを持った白いクマのぬいぐるみでした。
マスターから貰った、メイコちゃんの宝物。
メイコちゃんは毎晩、このクマと一緒にカイト君のベッドに潜り込んでいたのです。

「姉さんは、師匠がいなくて平気なの?」
「わたしは大丈夫。お姉ちゃんだもん」

メイコちゃんは大きく頷いてみせましたが、カイト君の目には、彼女のあごが細かく震えているのがはっきりと映りました。
カイト君と初めて出会った時から、いいえその前からずっと、良い『お姉ちゃん』であろうとしてきたメイコちゃん。
いつだってカイト君のことを一番に考えてくれたメイコちゃん。
その彼女に向って「お風呂も寝るのも一人でする」と告げることは、とても酷いことに思えました。
それでなくても、メイコちゃんは『変化』や『予想外の事態』に弱いのです。
今のメイコちゃんは、驚きと、寂しさと、『お姉ちゃん』として『弟』の希望を叶えなくてはという義務感で頭がいっぱいになっているでしょう。
パニックにならないのが不思議な程でした。

わたしはこれから、『お姉ちゃん』としてカイトに何をしてあげればいいんだろう。
何をしてあげられるんだろう。
……何もしてあげられなかったらどうしよう?

お姉ちゃんとしてできることが無くなれば、弟としてのカイト君も消えてしまう。
カイト君が遠くなってしまう。
そんな不安で、メイコちゃんは立っているのがやっとでした。
真っ青な顔のメイコちゃんを見ていられなくて、カイト君は目をそらしました。
手に持ったアヒルとクマが、のんきな顔で見上げてきます。
返した方がいいかもしれないと思いましたが、そうすればメイコちゃんの『お姉ちゃん』らしい行為を否定することになってしまいます。
だから、受け取るしかありませんでした。
カイト君はメイコちゃんから、カイト君自身だけではなく、隊長と師匠まで取り上げてしまったのです。
「ごめんね」と呟くカイト君。
彼の頬をそっと両手で挟み、「こういう時は『ありがとう』でしょ」というメイコちゃんは、やっぱりどこまでも『お姉ちゃん』でした。


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