旧市街に足を踏み入れると、木枯らしがミクの長い髪を撫でた。
思わず肩を竦めた少女の視界を、雪の花弁が横切っていく。
(今日は本格的に積もるのかな)
両手に息を吐きかけて、生け垣と竹の囲いが連なる町の更に外れを目指して歩く。
昨日降ったらしい雪が道の端に解け残っているのを、掃除夫が丁寧に掃いていた。
お互いに会釈をして、顔をあげた先には鮮やかな緋。
目的の場所に着いたのだ。
椿の生け垣の内側に佇む赤い着物の女性は、舞い落ちる雪よりも柔らかな微笑を浮かべた。
「おはよう、ミクちゃん。よく来てくれたわね」
「おじゃまします」
勝手口から庭へ入る。
緋色の女性---メイコの手元でパチンという音がして、花鋏が椿を一輪、生け垣から切り取った。
「そろそろ貴女が来るだろうと思って。今カイトが部屋を暖めてくれているのだけど、せっかくの雪ですもの。庭を眺めながらお茶でもいかが?」
「はい、ご馳走になります!」
導かれた縁側にお茶の準備が整っているのを見て思わず声が高くなる。
しまった、お行儀が悪かったかな。
そう思ってメイコを見たが、彼女もまた嬉しそうにしていたので安心する。
白い手が、小さな花器に先程の椿を挿した。
「今日はたまに木枯らしが吹くけれど、穏やかな朝ね。雪が静かで椿も咲いて」
「美味しいお茶とお菓子もあって」
「ふふ、可愛いお嬢さんと一緒にね」
現金な発言に可愛いと返され、ミクは半ば顔を隠すようにしてお茶を啜った。
これもまた行儀が悪い気がしたが、初めて茶を振る舞われた時に、作法など気にしなくていいとメイコが言ってくれたので、ミクはその言葉に甘え放しだ。
ほんのりした甘さが体を内側から温め、器から伝わる熱が悴んでいた手を解してくれる。
ほう、と吐いた息が白く立ち上り、儚く消えた。
視界には良く手入れされ、雪化粧を施された庭の木々。
人も風も通らない分、この家の庭の雪は大部分が解け残っているようだった。
「朝早くから準備をしてくださったんですね。寒いのに・・・ありがとうございます」
凛とした佇まいは、寒がっているようには見えない。
けれど、首もとの詰まった服の上に厚手のコートを着込んだミクに比べて、襟足の開いた和服に道行きを羽織っただけのメイコはどうにも薄着に思えた。
足元にしたって、こちらはタイツにブーツだが、緋色の女性は足袋と草履。
素足よりはいくらかマシという程度なのではないだろうか。
少なくともミクは、メイコと同じ格好で外に出ることは出来そうになかった。
「気にしないで。貴女が来てくれるのが楽しみで、ついつい早起きしてしまったの。それに今日はもう一つ、気になることがあったから」
「気になること?」
「ほら、あそこの南天の陰。・・・見える?」
繊手の指す先を見遣って、ミクは「あっ」と声を上げた。
赤い実をつけた緑の葉に隠れるように、雪兎が二羽、睦まじげに並んでいた。
赤い目に緑色の耳。ほんの少しだけ体の大きさが違う兎達。
小さい方の兎の耳元に小ぶりの椿が添えてあって、なんとも微笑ましい。
「雪兎! かわいい!」
「昨日降った雪で作ってみたの。夕方にね。夜の間に解けていないか気になって・・・木陰だから大丈夫だとは思ったのだけど」
「ええっ、昨日の夕方! 今日よりずっと寒かったのに!? 駄目ですよ、風邪をひきます」
「そう、辺りがすっかり暗くなった頃にね。おまけに風呂上がりに様子を見に行こうとまでしたんだよ、このひとは。僕が止めなきゃ外に出て、1時間でも家に入らなかっただろうね」
障子が開いて、青味がかった髪に袴姿の青年が顔を出した。
肩に藍色の羽をした鳥を乗せ、手には白い布を持っている。
「カイトさん。お邪魔してます」
「いらっしゃい、初音さん。もっと言ってやってくれないか。今朝は今朝でこんなに薄着で庭をうろついて、本当に風邪をひいたらどうする気なんだろうね。喉を痛めてごらん、歌だって歌えなくなって困るのは君だよ、メイコ」
眉間に皺を寄せて、ぶっきらぼうな口調で。
けれども、手に持っていた肩掛けを華奢な肩に羽織らせる手つきは優しい。
袴の裾を捌いて隣に座ったカイトのために、メイコが新たに茶を点て始めた。
「陽も昇らないうちから起き出して、片肌脱いで矢を射ている人には言われたくないわね」
「あれは武道だからね。それなりに体も温まる。君はなんだ、雪が降ろうが木枯らしが吹こうが薄着で庭先に突っ立って」
「カイトだって十分薄着じゃないの。今は襟巻きもせずに」
「屋内だからいいんだよ」
「私だって、ほらちゃんと道行きも着てるわ」
「足りない。見ていて寒々しい」
「貴方、私が綿入れを着ておこたに入っていたって心配するんでしょう」
ころころと笑い出したメイコから茶を受け取って、カイトはむすりとした顔でそれを啜る。
心配して何が悪い、という言葉を茶とともに飲み下しているように見えて、ミクはこっそりと口元を緩めた。
寒くて、人気がなくて、それでもこの町を包む空気は優しい。
中でもこの二人の間に通うそれは格別だった。
「今日からはしばらく雪が降り続くと裏山の狐が言っていたわ。年の暮れまでには積もるでしょうね。
雪兎だけじゃなくて、雪だるまやかまくらだって作れるかもしれないわ」
「そんなにたくさん! いいなぁ、新市街はすぐに除雪されちゃうから、少しつまらなくて」
「良かったら雪遊びにおいで。鏡音の坊と嬢やも連れて。積もったら手紙を出すから」
ああ、手紙といえば。
茶碗を置いたカイトが懐から紙の束を取り出し、肩の鳥に銜えさせた。
「宛先が多いけど、頼むよ」
鳥は手紙を嘴に挟んだまま器用に一鳴きし、雪の降る空へ飛び立っていった。
「百射会のお誘い?」
「ああ」
尋ねたメイコにカイトが頷く。
文字通り矢を百本射る競技会は、この町にまだ人がたくさん住んでいた頃から行われているらしい。
年が明けて鏡開きの日に行われるこの行事は、今では新旧二つの町の住人達の交流会も兼ねていた。
「出納役さん達、楽しみにしてましたよ。仕事が終わった後に、みんなで練習してるんですって。今度こそは百本全部射るぞって」
「ああ、前回までは50射の区間参加だったからね。
そうか、今回は多めに矢を用意しないといけないな」
「それから、メイコさんのお汁粉も楽しみにしてますって」
「あら、それは腕を振るわないとね」
新市街の役所に勤める出納役や市議の面々は、もともとこの町の住人だった。
他の多くの人々と共に越してきた彼らは、ミクとはまた違った意味でこの二人を慕っている。
仕事に忙殺されている彼らに、ミクは何度頼まれたことだろう。
ミクちゃん、あの二人は元気かな。幸せにしているだろうか。私達の代わりに、様子を見てきてくれないか。
「カイト、今回も優勝できそう?」
「どうだろう。強力な対抗馬がいるからね」
さらりと応じて、カイトは立ち上がった。
下駄を履き、メイコが傍らに置いていた花鋏を持つと、雪を踏みしめて生け垣へと向かう。
「ミクちゃん、神威さんは参加なさるのかしら」
「はい。楽しみにしてるみたいだって、リンちゃんとレン君が言ってましたから。鍛錬にも余念が無いみたい」
「それは手強いね」
一際鮮やかな椿を手に縁側に戻ってきた青年は、低く喉で笑った。
「でも、勝つんでしょう?」
「勝って欲しい?」
「もちろん」
真っ直ぐな瞳で答えた彼女の髪に、似合いの美しい花を飾って。
「勝つよ」
彼はゆったりと笑みを浮かべた。
花を挿した手が、そのまま白い頬に添えられる。
「冷たい。やっぱり寒いんじゃないか。二人とも早く中に入った方がいい。雪も本降りになってきた」
「実は貴方が一番寒がっているんじゃないの」
「なんでもいいから。初音さん、玄関に回っておいで」
「はーい」
左手に茶道具をまとめた盆を抱え、右手に鉄瓶を提げて、カイトは室内に戻っていった。
ミクとメイコの手元には、茶碗だけが残された。
「カイトさん、寒がりなんですか?」
「真夏以外は襟巻きを手放さない程度にはね。普段は痩せ我慢が過ぎるけど」
やれやれというように、メイコが溜息を吐く。
「ミクちゃん、飲み終わったら朝ご飯にしましょうね。あと一品作り足そうと思うから、その間に配膳を手伝って貰ってもいいかしら」
「まっかせてください! でも、作り足しなんて珍しいですね。何を作るんですか?」
いつもなら朝食の準備を全て終わらせてから庭に立つメイコなのに。
首を傾げるミクから、メイコはそっと視線を逸らした。
「寒がりの癖に朝一番に庭に出て、兎に花を飾ってくれた誰かさんの好物をね」
その頬が薄紅色に染まっているのを見ながら、ミクは最後の一口分の茶を啜った。
飲み終えて、椀に残る甘い香りと、冬の庭の静謐な気配とを胸一杯に吸い込む。
この家に満ちる、柔らかな空気をそのまま吐息に変えて、歌声を乗せることができたなら。
旧い町に残った男女を気にかけ続ける人々への、何よりの便りになるだろう。
「ご馳走様です、メイコさん」