陽は完全に昇りきり、真夏の暑さが周囲を焦がし始めた。
手に触れている椿の葉も、僅かに熱を帯びている。
明け方、家の前に蒔いた水は最早跡形もなく、竹藪を渡る風だけが少しばかりの慰めだった。
夕方になったら、もう一度打ち水をして、庭の木々にも水をやらなければ。
百合柄の紗着物に襷がけをして、生け垣の剪定を始めてから一時間余り。
そろそろ終わらせて家に入らないと、青味がかった髪の同居人がメイコから鋏を取り上げてしまうだろう。
その彼は、今日も今日とて併設の弓道場に籠もっている。
最近は以前にも増して、稽古に熱が入っているようだった。
以前---そう、メイコが新市街の子供達と親しくなり始める前。
溜息を吐いたメイコは、隣の弓道場に目を向けた。
射場と的場は屋根がついているので、カイトの姿も的の様子も直接見ることはできない。
だが、歌うたいの敏感な耳は、風を切る矢羽根や突き刺さる矢の音を漏らさず拾った。
その音が、精彩を欠いていることまでも。
熱の入りようと反比例するように、彼はここの所、伸び悩んでいる。
メイコは、彼が何に躓いているか知っている、と思う。
だが、彼は人から提示された答えに黙って納得するような性格をしていない。
メイコ自身も、そんなことをするつもりは毛頭なかった。
(私にできるのは---)
道場と庭を隔てる垣根に添うようにして咲いた、群青色の花の群れを見遣る。
種から植えた、我ながら呆れる程たくさんの桔梗の花。
自分の不甲斐なさにもう一度溜息を吐き、物憂げに瞳を閉じたその時。
「御免」
背後から声を掛けられ、メイコは驚いて振り返った。
弓構えから打起し、そして引分け、会。
構えは完璧であるはずなのに、離れの瞬間に心が撓む。
矢は的をわずかに外れ、安土へと突き刺さった。
的を外した物、的の中心から大きく逸れた物、そうした矢が10本余り。
残心に伴い吐き出された息には、隠しきれない落胆の色があった。
射位から下がり、畳敷きの控えに座り込むと、セミの声とともに噎せる程の暑さが戻ってきた。
集中できていない訳ではない。射法にも問題はない。
にも関わらず矢が真っ直ぐに飛んで行かないのは、心の収斂する方向が間違っているからか。
額を伝う汗を拭って、カイトは仰向けに寝転がった。
逆さまの視界に、弓道場の隅に置かれた花器が映る。
庭の手入れに余念がないメイコが、朝のうちに活けてくれた桔梗。
うだるような暑さと晴らしきれない憂さの中で、その花だけが涼しげだった。
この数ヶ月、腕は鈍る一方だ。
心技体が正しく定まっていれば、矢が離れる瞬間に視界が広がり胸が開くような感覚がある。
それはメイコと共に歌う時の、混じり合った声がどこまでも伸びて行く歓びに良く似ていた。
心のささくれが弓矢にこれほど顕れるなら、歌はどれだけ乱れることか。
胸を濁し続ける澱を彼女に見せるのは憚られ、しばらく声を合わせることもしていなかった。
(どのみちお見通しなんだろうけど)
不調が続くカイトのために、何も言わず花を活け続けてくれているひと。
苦笑して立ち上がり、軽く道着を整えた。
今日はもう終いにしよう。
矢取り道を的場に向かって歩くと、垣根の向こうに咲く桔梗が目に入る。
ここ数週間、道場の一角を潤し続けている花だ。
カイトの調子が明らかに崩れ始めた春先、メイコが大量に種を蒔き始めた時は驚かされたものだった。
だが、芽が出て茎が伸び、蕾が綻び始める頃になってもカイトは行き詰まったまま。
全ての桔梗が切り取られ飾られる前に、心を晴らすことが出来ればいいのだが。
メイコから気遣いを受けるのは、申し訳なくもどこか面映ゆい。
思考を己から共に暮らす女性に切り替え、ようやく浮上した心は、しかし一瞬で強張った。
二人が住む家の庭先、生け垣を挟んで立つ男女が目に飛び込んできたのだ。
こちらに背を向けて立つメイコの右手には愛用の花鋏。そういえば生け垣の剪定をすると言っていた。
長身の男を見上げているせいで、首筋で切り揃えられた髪が背に届きそうだ。
空いている方の手が口元にそっと添えられ、襷掛けをした紗着物の肩が愉し気に揺れていた。
その後ろ姿が何故か遠く感じられて。
「メイコ」
呼び掛けた声は硬い。
近付くカイトを振り返ったメイコは、こちらに寄り添うように生け垣から離れた。
傍らに収まる細い肩に、粟立っていた心がほんの少し宥められる。
---心が粟立つ? 一体何に対して。
「神威さん、先程お話ししたカイトです。カイト、こちらは神威さん。
ほら、ミクちゃんがこの間話してくれたでしょう。先月の末に新しい仲間が増えたって」
「・・・・・・ああ、新市街に越していらしたと言っていたね」
「お初に御目にかかる。突然申し訳ない。散策をしていたら、見事な庭が目に入った故」
目に入ったのは本当に庭か。
口を開けばそんな言葉が飛び出しそうな自分に動揺し、カイトは黙ったまま目礼で応えた。
「カイト殿は弓を嗜まれるとか。道場までお持ちとは羨ましい限り。
我が家は剣の鍛錬には障りないが、弓矢までは流石に手が届かない」
「カイト、今日のお稽古はもうお終い? 麦茶が冷えているけど、用意しましょうか。
神威さんにも上がって頂いて」
「これはかたじけない」
「・・・・・・いや」
メイコの紅鳶色の瞳が瞠られた。
思わず口をついて出た拒絶をごまかすように、カイトは言葉を続ける。
「神威さん、良ければ道場を見て行かれませんか。メイコ、矢を回収して戻るから、道場の控えにお茶を頼むよ。二人分」
「二人分って」
「君はまだ剪定の途中なんだろう? 早々に終わらせた方がいい。
この暑さは体に障る。昼までやっていたら怒るよ」
一息に言って、道場側の柵の入り口を開ける。
物言いたげなメイコに、出来る限り優しく微笑ってみせた。
「・・・・・・お相手は僕がするから。神威さん、どうぞこちらへ」
「では、お言葉に甘えて」
客人が従うのを見て、言い募っても無駄だと思ったのだろうか。
メイコは軽く頭を下げて、母屋へと戻っていった。
彼女の姿が遠ざかるのに安堵を覚えるなど、初めての経験だった。
切り子細工のグラスに揃いの水差しから茶を注ぎ足しつつ、他愛もない話をする。
二杯目を飲み終わる頃にはあの何とも言えない焦りも治まっていた。
道場は二人立ちの近的。巻藁が一つ、矢取り道の反対側と裏手には竹藪があって。
簡単に説明をして、「良ければいつでも稽古に来てください」という言葉も出た。
社交辞令の範囲内とはいえ、ようやく本来の愛想が戻ってきたように思う。
紫色の髪の青年は、寡黙だが裏表のない人物のようで好感が持てた。
---となると、先程の己の態度がいかにも大人気なく感じられる。
あれ以上、メイコを彼の視界に入れていたくないと思った自分。
再び思考の渦に囚われそうになり、カイトは軽く頭を振って立ち上がった。
「失礼。体が固まらないうちに肩を解してしまいたいので、慣らし打ちをさせて下さい」
「お邪魔では?」
「いや、構いませんよ。整理運動のようなものなので、喋りながらでも」
却って申し訳ないが、と断り、巻藁へ向かう。
一本、二本と打ち、三本目を番えたところで、神威が口を開いた。
「カイト殿は、良い奥方をお持ちだ」
ぎ、と弓弦が鳴き、矢尻が僅かにぶれた。
構えを解き、思わず乱れた吐息を押し留めて後ろを見遣る。
「・・・・・・彼女は、僕の妻というわけでは」
「失敬。祝言はまだであられたか」
似合いのご夫婦とお見受けしたが。
淡々と続けられ、否定を重ねようとしたカイトの言葉は喉元で止まった。
ふうふ、と舌先に乗せた言葉を反芻する。
心に楔が打ち込まれたような気がした。
脳裏をよぎる様々な記憶。
ずっと二人で寄り添いあってきた。
同じ町に暮らす住人は数多くいたが、歌を生業にしているのはメイコとカイトだけ。
重なる歌声に割り込める存在など誰もいなかった。
新市街の歌姫と、メイコが出会うまでは。
去年の秋、帰宅したカイトを迎えた華やかな唱和。
年が明けてすぐの百射会で、連れだってやってきた少女と双子達の世話を甲斐甲斐しく焼いていたメイコ。
寒さが緩み始める頃には、彼女の口から出る話題の大半が「歌仲間」であるところの子供達で占められるようになった。
楽しげに歌う少女達が可愛くないわけではない。
新旧問わず、町に歌声が響くのは良いことだと思った。
ならば胸に去来する遣る瀬無さは一体何なのか。
(・・・・・・メイコが)
メイコが自分だけのものではなくなるような気がした。
馬鹿馬鹿しいが、そう思わずにはいられなかった。
彼女も彼女の歌声も、カイトのものであるはずがないのに。
浅ましい心を直視したくなくて、胸に巣くう独占欲から目を逸らし続けていた------。
彼女に誰も近づけたくないと思った。
彼女が心を開き、歌声を重ねる全ての者を、彼女から引き離したいとさえ思った。
だが、そんなことが叶う筈はない。
叶えて良い筈がないことも、本当は分かっていた。
だからこそ身動きがとれなかったのだ。
桔梗の花を活け続けてくれたメイコ。
彼女がカイトに傾ける心に、何も変わりはなかったのに。
勝手に不安になって、眼を曇らせていた。
それももう終わりだ。
やっと向き合えた。やっと見つけられた。
己の心の向かう先。
---それは最初から、ただ一人のひとに決まっている。
黒い袴の裾を翻し、矢置き場へ向かう。
手に持っていた巻藁用の矢を、本番用のそれと持ち替えた。
早矢と乙矢。二本で一組の矢。
「カイト殿?」
訝しげな様子の客人には応えず、射位へ。
足踏みから丁寧に構えを作る。
臨んだ的が、近い。
放つ。
久しく経験していなかった、離れの瞬間の心地よさ。
矢は的の中心に突き刺ささり、もう一本を続けて構えた。
彼女から誰をも引き離せないというならば、自分が踏み込んで行けばいい。
誰よりも近く、あの鮮やかな紅の傍らに。
乙矢は、早矢の隣に真っ直ぐ吸い込まれていった。
「お見事」
賞賛を背中で受け止め、昂揚を呼気と共に吐き出す。
弓を下ろし振り向いたカイトは、紫紺の瞳をしっかりと見据え、一礼を返した。
夜空にかかる月は細い。
だが、池を中心に乱れ飛ぶ無数の蛍が、月光の頼りなさを補っている。
駒絽の着流し姿で縁側に腰掛けたカイトが、晩酌用の盆を手に歩み寄るメイコに気付いた。
静かに左手を差し出されて、首を傾げる。
手に持った物を寄こせということかと思い、盆を渡すと、それは苦笑と共に反対側の手で受け取られた。
差し伸べられていた方の手がメイコの手を取り、傍らに導くようにして引いた。
肩や膝が触れあう程の距離に、少しだけ戸惑う。
伺うようにして見上げたカイトの顔は、これまで見たことがない程に満ち足りていて。
目を閉じて思い出す。
生け垣の剪定を終え、道場の方を伺うメイコの耳を打った、快い矢の音。
明滅する光を肴に、二人で猪口を傾ける。
酔いが目元を蕩かす頃、カイトの声が静かに響いた。
「心配を掛けたね」
呟きは柔らかい。
メイコはそっと首を振った。
気遣いはしたが、心配はしていなかった。
カイトが何に葛藤していたか、メイコは知っていた。
彼が必ずそこから抜け出せるということも。
「初音さんは素直ないい子だね。
鏡音の双子は元気があって楽しい。
今日会った神威さんとも、気が合いそうだよ」
---僕はやっと、それを認められたように思う。
歌うように。
その声は、以前より深みを増したように感じられた。
「迷路の入口と出口は、同じ所にあったんだ」
メイコは、自分の手を彼のそれに重ねた。
握り返してくれる、その温もりが優しい。
この手の持ち主と出会った冬の日を覚えている。
初めて声を合わせた時の幸福感も。
彼と共にあることはメイコの最大の幸せだ。
新たな歌い手の出現も、その幸せを脅かすことはなかった。
メイコにとって、全ての出会いは歓びだった。
他ならぬカイトとの出会いがそうだったように。
彼もきっとそれに気付いてくれると信じていた。
---変わらないものも、確かにあるのよ。
だから貴方も変化を怖れないで。
そんな気持ちを、ただ星の形の花に託して。
「ところで、あの桔梗には特別な意味があったのかな。
君が同じ花ばかり活け続けるのは、珍しいと思うんだけど」
「・・・・・・ミクちゃんがね」
メイコが妹のように可愛がっている少女の名前を出しても、カイトの表情が強張ることはない。
そのことに改めて安堵して、言葉を続けた。
「春の初め頃に教えてくれたの。桔梗の花言葉。種蒔きの時期にも重なったから、ありったけ植えてみようと思って」
「確かに、驚く位たくさん咲いたね。それで、花言葉って?」
「・・・・・・内緒。ミクちゃんに直接聞いて。私からの宿題よ」
ええ、と情けない声。
微笑みに緩んだ唇をそっと開いて、メイコは歌を紡ぎ始めた。
一呼吸置いて、カイトの声が重なる。
その歌声は、これまでにない調和を生み出し、夜の庭に満ちていった。