歌がきこえる。
意識を持った時、最初に覚えた感覚がそれだった。
こちらの身元照会と住所の割り当て。
流れるように作業は進んでいる筈なのに、何故か逸る心が止められない。
全ての手続きを終えて、これから暮らす世界へと一歩を踏み出した。
二月の冷たく乾いた風が髪を掬い、空と同じ色の襟巻きと、袴の裾を靡かせる。
町並みには目もくれず外れへ外れへと歩む。
渡された地図など見る必要はなかった。
この歌声が自分を導いてくれる。
連なる塀と石壁の先、生け垣に囲まれた屋敷が一軒。
ここだ、と確信して門から中へと入る。
「家」に着いたのだから気分が鎮まっても良さそうなものだが、まだ何かが足りていない。
この歌声の主はどこだろう。
会いたい、その衝動が胸の内で暴れ回っている。
きちんと整頓され、清められた邸宅の中に人影はない。
未だ会ったことのないその人の気配だけが、花の香りのように漂っている。
その気配と、きこえ続けている歌声とを辿ると、足は自然と縁側へ、そして庭へと向いた。
自分がここで暮らすと決まった時に用意されたのだろうか、軒下の踏み石の上には、足にぴたりと合う雪駄が揃えて置いてあった。
履いて、表に出る。
美しく整えられた庭園に並ぶ木立の中でも一際目を惹く一角。
解け残る雪の中で健気に蕾をつけた紅梅、その木に寄り添うようにして「彼女」は佇んでいた。
袖と裾とが淡い緋で染められた白地の着物。襟足で潔く切られた栗色の髪。美しく澄んだ紅鳶色の瞳。朱い唇と、その唇が紡ぐ柔らかな声。
このひとだ。
頭を占めるのはその一言。その言葉と、早鐘を打つ鼓動が体内で鳴り響く。
あとはただ、目の前の女性の存在と、その声のみがじわじわと体を満たしていく感覚だけ。
歌を歌う者としては失格だろうか、声も出せずにいる男の視線と、緋色の女のそれとが絡んだ。
彼女の歌声が止んだ。自分の鼓動は止まない。
二人の口から、同時に「あ」という音が漏れた。
思わず零れ落ちたにすぎないその二つの音の、なんという重なり。
驚きに呆けた女の瞳が、やがてふわりと細められ、唇が弧を描く。
今、きっと自分も同じ顔をしている。
男はそう確信した。
そして、彼女はどういう気持ちでいるだろう、と思う。
自分と同じ表情をしている彼女は、自分と同じ歓びを感じてくれているのだろうか。
確かめたくて、歩み寄った。
手を伸ばせば触れられる距離まで近付く。
自分より幾分低い背丈と、華奢な肩。
見下ろす視線と見上げる視線の交わる場所で、「はじめまして」と声が重なる。
彼女の顔が、より一層綻んだ。
その笑みは、一点の曇りもなく幸せだと告げている。
くらりと酩酊感に襲われるような、体の隅々にまで気力が行き渡るような。
これが誇らしいという気持ちなのだな、と理解する。
彼女を幸せにできることが、自分の誇り。
そのために歌うのだと知った男に、紅梅が微笑んでいた。
多幸感に押されるようにして意識が浮上した。
先程まで昼間でも肌寒い空の下にいたと思ったのに、今は闇と温かい布団がカイトを包んでいた。
夢か、と思う心に落胆の色はない。
その夢は過去であり、自分にとっての生と幸福とが始まった日の記憶だった。
彼女と出会えたこと以上の幸せなどないと、その時は思っていた。
だが、共に暮らし、歌い、支え合う時間がもたらす喜びは、日を追う毎に大きくなり続けている。
闇に目が慣れ、室内の様子が分かるようになり始めた。
外の景色が見えるよう敢えて雨戸は閉めず、縁側のガラス戸と障子の覗き窓越しに月光が差し込んでいる。
身を起こしたカイトは、その微かな明かりを頼りに、隣で眠るメイコにじっと見入った。
穏やかな寝息をたてて、あどけない表情で。
幸福がそのまま人の形になって傍らに存在している。
それは頭の芯が痺れるような感覚だった。
どれ程愛しく想っているか、彼女は知らないだろう。
自分自身、伝えきれるとは思えない。
彼女と共にある幸福が日々大きくなるのと同様に、彼女に対する想いもまた膨らむ一方なのだから。
遠くの居間で柱時計が時刻を数え出す。
優しく籠もった音が十二回。
「今日」で彼女と出会ってちょうど二年目を迎えたことになる。
偶然だが、この時間に目を覚まして良かった。
喜ばしい日の記憶は一秒でも長い方が良い。
いっそこのまま夜明けまで起きていようかと馬鹿なことを考えた時だった。
小さく身じろぎをしたメイコが、いかにも眠たそうにその目を開けた。
「・・・・・・もう、あさ?」
布団の上に身を起こしているカイトを見て、夜が明ける時間だと思ったのだろう。
とろんとした瞳がこちらを見上げる。
いとけない仕草で寝返りをうち、そのまま起きあがろうとするのを頭を撫でて制する。
「まだ日付が変わったばかりだよ」
そう告げるとメイコは口の中で「ひづけ、が」と呟き、次の瞬間、蕩けるような笑みを浮かべた。
「お誕生日おめでとう、カイト」
淡い月の光に仄めく肌と、きらめく瞳に濡れた唇。
その全てに祝福されて胸が詰まる。
ああ、と頷くのが精一杯のカイトに、メイコがそろりと手を伸ばした。
並べて敷いた布団の境目で、たおやかな手がカイトの手を待っている。
掌で包むようにして握ると、彼女は温もりを味わうように瞳を閉じた。
柔らかな沈黙。
こちらへ寝返りをうった際に乱れた髪を梳いてやる。
そうすると、彼女はじゃれるように笑い、薄く開いた瞳から黒蜜のような光を覗かせた。
「あのね」
と小さな声。
うん? と相槌をうったが、彼女はなかなかその先を口にしない。
握った手の指先で促すように唇をなぞる。それでも言わない。
言ってごらん、と瑞々しい弾力を確かめるようにつついて、メイコはようやく言葉を繋いだ。
「今日はカイトのお誕生日だけど、世界で一番幸せなのは私だと思ったの」
くすぐったそうに笑いながらメイコは言う。
その言葉の意味を理解すると同時に、夢の中で味わった感覚が体を満たしていく。
幸福と、誇らしさ。
メイコが傍らにいてくれる限り、カイトが持ち続けていられるもの。
彼女の誕生日には、自分も同じことを思った。
「世界で一番幸せ」なのは自分だと伝えたくなったけれど、言えば彼女は否定するだろう。
そんなことない、と。
カイトがいてくれる以上の幸せなんてある筈がない、と。
自分が望んでいる通りの言葉を、惜しげも躊躇いもなく贈ってくれるだろう。
そんな言葉を受け取ってしまえば、幸せはカイトの心の許容量を容易く超えてしまう。
メイコが与えてくれる全ての物を受け止めきれるようになるまで、保留しておくべき類の喜びだった。
だから、「そう」とだけ返す。それは良かったね、という響きで。
「そうなの」と彼女が微笑む。本当よ? とでも言いたげな声で。
今は、それだけでいい。
髪を梳いていた方の手を、そっと頬に滑らせる。
秋頃までは不思議そうに自分を見上げるだけだったメイコ。
最近は違う。
彼女の内側から血潮の流れる速さで伝わる熱と、自分の掌が与える熱とで、白い肌にさぁっと朱が差すのだ。
今は暗がりにいるせいで顔色までは見えないが、その頬がじんわりと熱を持つのは分かった。
舞い落ちる雪が手の上で解けるような、春風に花が綻ぶような、得も言われぬ昂揚感を与えてくれる。
変わってきている、と実感するのはこういう時だった。
彼女にとって自分はなんなのか。
自分にとって彼女はなんなのか。
ほんの少し前まで、メイコはメイコで、カイトはカイトで、ただそれだけだった。
そこへ、「仲間」であり「後輩」であり「妹」のような少女との出会いが、二人の意識に変化をもたらした。
メイコにとっての自分が、新市街の子供達と同じ「仲間で、後輩で、弟のような存在」では嫌だと、カイトは思ってしまった。
もっと別の何かがいい。別の何かでなければ嫌だ。
彼女にとって、特別で、唯一の、かけがえのない「何か」。
そんな存在でありたいと願うのは、自分にとってのメイコがそうだから。
ごく当たり前の本心に気付けたのは、随分最近のことだったが。
(気が付いて良かった)
心の底からそう思う。
もし気付かずにいれば、自分の手でメイコの頬を朱に染めることも、髪を撫でて彼女の瞳をうっとりと細めさせることも、抱き寄せた体からふわりと力が脱ける瞬間を味わうことも知らずにいた。
彼女といて自分が幸せなように、自分もまた、彼女を幸せにできるのだ。
彼女がくれる幸せが日々大きくなっていくように、自分が与えられる幸せもこれからきっと増えていく。
カイト自身持て余し気味のそれを、今のメイコに差し出すのは憚られるので、あげるのはほんの少しずつ。
重ねた手だけでたっぷり満足できる夜も、大切にしたいと思うから。
「もう少しお休み」
身を屈め、己の額を彼女のそれと触れ合わせて至近で囁く。
近すぎる距離も、分かち合う体温も、本当は充分ではない。
けれど、いつか満たされる日が来ることをカイトは知っていた。
自分がその日を待てるということも。
素直に従い瞳を閉じたメイコはとても可愛らしかった。
彼女の肩に布団をかけ直しながら、世界で一番幸せなのはやっぱり僕だよ、と思う。
その考えを読み取ったかのように彼女はもう一度目を開け、枕と布団ごとカイトの方へと身を近づけた。
何事かと驚くカイトのことは気にもせず、繋いだままの手の上に自分の布団を被せ、満足そうに笑みを浮かべた。
「お布団から手を出したままだと、寝てる間に冷えてしまうでしょう?」
だからこれはとても良い思いつきなのだと彼女は言いたいらしい。
手を離すという考えは最初から無さそうだった。
ならば自分も「そうだね」と言って、大人しく身を横たえる他ない。
カイトが横になったのを確認して、メイコは今度こそ目を瞑った。
唇には微笑を湛えたまま。
重ねていた手が僅かに動き、指を絡める形になる。
これなら寝ていてもきっと離れないわね。
吐息のような呟きに、愛しさがまた一つ。
「お休みなさい、カイト。・・・・・・なんだか、同じ夢が見られそうな気がするわ・・・・・・」
やはり眠かったのだろう。
瞬く間に眠りに落ちていく彼女を見つめて、またあの日の夢を見たいと思った。
今度は二人で。手を繋いで、指を絡め合ったまま。
春はまだ遠く、空っ風と残雪がしぶとく冬を留めようとする二月。
けれども木の芽も花の蕾も、固い表皮の内側で機を待っている。
柔らかく鮮やかな姿を披露する日を。
咲き誇る時を。
その先陣を切って凛と咲く、芳しい紅梅のようなひと。
あの日、彼女の存在がどれ程いじらしく、そして眩しく思えたか。
この季節に生まれ、彼女に出会えた幸せと共に、伝えたいと願うから。