肌寒さと空腹で目を覚ました。
どちらも差し迫ったものではない。
霧深い早朝のこの街で、下着と薄手のシーツのみに身を包んでいれば寒いのも当然だ。
空腹に関しては、キッチンに行けば何かしらある。
放り出していたガウンを羽織り、ひんやりとした床を歩く。
フライパンを火にかけ、卵を割り入れて・・・・・・すぐさまアンは後悔した。
コンロの火力が強すぎるのだ。
あせって火を弱めると今度は点火箇所が偏り、熱が均等に入らない。
慌てている間に卵は焼け焦げてしまった。

「・・・・・・あー、もう」

フライ返しを乱暴に投げ出してアンは呻いた。
このアパルトマンに越して二日目、料理をしたのはこれが初めてだ。
居抜きで格安の家賃、バルコニーつき。底も見えない程汚れてはいるが、眼前に流れる河を見下ろせる三階の部屋。
そこに惹かれて借りたはいいが、まさかこんな所に落とし穴があったとは。
今日のところは諦めてデリにでも行った方がいいのかもしれない。
粗末な洗面所の鏡を覗きこむ。
薄茶に近い金髪、青い垂れ目、そばかすの浮いたコケティッシュな顔立ち。
夜の女そのもののアンだが、この場所自体が歓楽街の一角だ。
それに、霧は当分の間晴れない。出歩くのに気後れすることもないだろう。
問題は開いている店が近くにあるか、だが。
アンが溜息を吐いたその時だった。
玄関のチャイムがなった。
ここの住所はまだ誰にも教えていないはずなのに。
一体誰が来たのだろうと、恐る恐るドアに近付く。

ドアスコープから外を覗き見ると、そこにいたのは・・・・・・いや、あったのは、色とりどりの花だった。
花束を持った誰かが、この扉の前に立っている。

「ちょっと、誰よ。花のデリバリーなんて頼んでないわよ」

驚きに跳ね上がったアンの声に、静かな応えが返った。

「朝早くにごめんなさい。私、以前ここに住んでいた者なの」

女の声だった。
一人とは限らないが、泥棒にしろ強盗にしろ、こんなに大量の花を抱えてわざわざチャイムまで鳴らすことはしないだろう。
どのみち、盗られて困る物もない。
アンは扉を開けた。噎せる程の花の香りが漂う。

「ねぇ、あんたここに住んでたんだったらさ。キッチンのコンロなんとかしてくれない?」

喪服の似合う街角


女はヨシエと名乗った。
ブラウンの髪と瞳。すっきりと整った顔立ちの美人だった。
大きな瞳は輝けば勝ち気に見えるのだろうが、今は長い睫毛の向こうで頼り無げに揺れていた。
襟の詰まった黒いワンピースを身につけ、よく磨かれた革のブーツを履いている。
その両腕には、大きな花束を抱えて。
火が均一に点かないとぼやくアンに小さく笑い、女はシンク下の棚の一番隅からサイフォンとコーヒー豆とカップを二客、そして小麦粉とボウルを取り出した。

「そんな物が残ってたのね。気付かなかったわ。あ、皿はもう使わせて貰ってるんだけど」
「ここに一纏めにしてたんだけど、確認しなかったの?」
「うん、急な引っ越しだったからさ。家具つきってことで即決よ。とにかくベッドで寝られりゃ良かったの。カップあったのね」
「もう持ってた?」
「昨日買ったばっかり。あーでもその豆とサイフォン貰っていい?」
「どうぞ。迷惑料代わりに」

ふふ、と微かな笑い声。
会話の間にも女は淀みない手つきで卵をほぐしミルクを入れ、あっという間にパンケーキを数枚焼いてみせた。もちろん焼き目は均一だ。

「やるぅ。使い慣れてるのに間違いはないわね」
「信用してくれた? 実は鍵もまだ手元にあるのよ。個人的に作った合い鍵だけど」
「まじで? ちょっと貸して」

女から受け取った鍵を持って入り口へと向かい、扉を開けたまま差し込んでみた。

「うわ、回るし」
「付け替えてなかったのね」
「あんの親父、とっちめてやるんだから」

アンが大家を詰る算段をつけている間に、女は皿にパンケーキを積み上げ、コーヒーを淹れて朝食の準備を整えた。
殆ど物音をたてずに動く女。まるで黒猫のようだ。

「美味しそう! あら、あんたは食べないの?」
「部屋に入れて貰うのと交換条件だから」
「おつりがくるわよ。気にしなくていいのに」
「食欲がなくて」
「そう? じゃ、コーヒーだけでもつきあってよ」

思いもよらぬ形でまともな朝食にありつけることになり、アンはご満悦だった。
珍客だが、まぁこんな出会いもありだろう。
遠慮無くパンケーキを口に入れながら女に問いかける。

「それで、あんたは何か取りに来たの?」
「いいえ、逆よ。鍵を置いていこうと思って。・・・・・・それから、お別れをしたくて」
「オトコ?」
「わかる?」
「この部屋を借りる時、大家に聞いたんだ。この部屋の前の借り主は若い男で、急にいなくなったって」
「・・・・・・ごめんなさい、本当は住んでたんじゃないの」
「住みたいと思ってた? ま、通い慣れてたには違いないんだろうけど。こんな街に住むような男の部屋にしちゃ妙に小綺麗だとは思ったのよねぇ」

明け透けな言葉に、女は自嘲気味に笑った。

「で、何? 別れ話しにきたら相手がもう居なくて空振りだったって話?」
「彼がここに居ないのはわかってた。ただ、けじめをつけようと思った時、この場所以外に思いつかなくて」
「その花は?」
「お別れするからには、貰った物は全部返そうと思って。花ばかりくれる人だったから、持てるだけ運んできたんだけど」
「どんな男だったの」
「馬鹿な人」
「ひどい言いぐさ」
「だって私なんかに本気になって」

女は俯いた。
行儀悪くフォークを銜え、アンは天井を見上げる。
黒い服。お別れ。けじめ。荷物を残してこの部屋から消えた、いないとわかっている男と、それでもここを訪ねずにはいられなかった女。
念のため確認する。

「・・・・・・ねぇ、その格好はさ。何かを悼んでる?」

ややあって、女は頷いた。
そ、と相槌を打つ。
沈黙が落ちかけ、それを追い払うために溜息をひとつ。
湿っぽいのは街を包む霧だけで十分だ。

「・・・・・・バルコニーに出ても構わない?」
「いいよ」

二人はコーヒーカップを持って外へ出た。
女はそれに加えて、例の花束を抱えている。アンはそれについては何も言わなかった。
幅の広い手すりにカップを置き、女は花に顔を埋めている。
体にまとわりつくひやりと湿った空気。
思わずガウンの前を掻き合わせた自分よりも、女の方が寒そうに見えた。

「どこでどうやって出会ったの。その馬鹿なオトコと」
「ここよ。このバルコニー。時間もちょうど今くらい」

追憶の箱を開くように目を伏せ、女は話し始めた。

「あの日は雨で、私はこの下の河辺を歩いてた。雨に濡れるのは別に構わないと思ってたから、大して急ぎもせずにね。そしたら、頭上から声をかけられて」

アンは想像してみた。
雨の早朝、この澱んだ河辺を歩く女。それはさぞかし儚げに見えることだろう。

「思わず立ち止まったら、彼は広げた傘を、私に向かって落として寄越したの」
「そりゃぁ、確かに馬鹿ね。馬鹿がつく程お人好し」

河に視線を落としたまま、本当にね、と女は呟いた。

「通りの向こうのカフェで俺とお茶する気があるなら、次の晴れた日に返しに来て。その気がなかったら捨てて、だなんて」
「捨てなかったんだ」
「彼に傘を差し出されて初めて、雨が冷たいってことに気付いたの」
「あんたも大概馬鹿ね」
「その通りよ」

女の肩が震えている。もうすぐ七時の鐘が鳴る頃だ。

「・・・・・・しばらくいていいよ」

そう言い残し、アンは室内に引っ込んだ。




アンは女の震える肩と、伏せられた顔が気になって仕方がなかった。
だから気付かなかった。
話している最中、彼女の手がスカートのくるみボタンを外していたことに。
そのスリットから覗く脚に銃が忍ばされていたことに。
河辺を見遣った女の瞳が揺れたことに。
その視線の先、淀み流れる河の傍に、青い髪の男が佇んでいたことに。

ヨシエと名乗った女は、花束を抱えたまま、コーヒーカップに手を伸ばした。
見下ろす先には愚かな男。
あの日と立ち位置が逆だった。
男の左胸には、赤い薔薇が一輪挿してある。
要らない所にまで気が回る性格は出会った日から変わらない。
あんなに鮮やかな色を飾られては、どれだけ霧が深くとも的を外せないではないか。
彼は今、笑っている。女はそう確信していた。
あの人懐こい顔を和ませて、青い目を細めて。

---出会って一年目の記念に、今度は君がこの部屋のバルコニーで俺を迎えてよ。

合い鍵を渡しながら女に向かってそう言った時と同じ表情で。

---貴方の瞳と同じ色の空の下を歩いてみたいわ。

ぽつりと零した女を抱き締めてくれた時と同じ微笑みで。

男の手が、胸元をとん、と軽く叩く。
その唇が微かに動いた。
距離がある。視界は霧に閉ざされている。
けれど、男が何と言っているのか女には分かった。
バルコニーから傘を、街角で花を、ベッドでは愛を。
何かを差し出す時には必ず口にしていた言葉。
受け取って、と。

鐘が鳴り始めた。
手にしていたカップを放り投げる。
カップが放物線の頂点に達する時には、女の手に銃が握られていた。
必要な数々の偶然は重なり合ってしまった。
招き入れられた部屋。
一人きりのバルコニー。
いつかの約束に従って現れた男。
分の悪い賭に勝ち続けて生き延びてきた女。

---これを勝ちと呼べるのかしら。

引き金を引く。
消音器越しの銃声は、バルコニーの床で砕け散る陶器の悲鳴に紛れた。
胸元で赤い花弁と飛沫を散らして仰向けに倒れる男。
河面が波立つ音も、鐘の響きに掻き消されてしまう。
その体がとろりと艶めく河に飲み込まれるまで、二人の視線は絡んだままだった。

---あなたといっしょにいきたかった。

抱えていた花束に銃を潜り込ませて河へと投げる。
残り香で硝煙の臭いを浚い、花が落ちていく。
まるであの日の傘のように。




カップが割れる音を聞きつけて、アンが再びバルコニーに出てきた。

「どうしたの、大丈夫?」
「ごめんなさい、カップを落としてしまって」
「あれ、花は?」

女は河に目を向けた。アンもそちらを見る。
二つの視線と煙る霧の先には、濁りたゆたう流れに飲み込まれていく花束があった。

「あんな河に沈むなんて可哀相だけど、失恋の餞にはぴったりかもね」

花束が完全に沈むまで見届け、その女は囁いた。

「本当にその通りだわ」

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やすおさん死んでませんよ! よしえさんのためなら何度だって甦るさ!

(sm5777994)

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