路面電車の待合い所から一歩踏み出すと、絹のような感触の霧雨が顔に降りかかる。
柔らかく温かなそれは決して不快ではなかったけれど、僕が待ち合わせをしている相手も同じ感想を持っているとは限らない。
妹のリンが以前言っていた。

---女の子にとって、雨はユーウツな物なの。靴は汚れるし服は濡れるし、おまけに髪が湿気で跳ねるんだから。

妹の膨れっ面を思い出しながら道を急ぐ。
待ち合わせ場所は中華街入り口の大門。
赤い柱のすぐ側に、彼女は佇んでいた。
メールで教えられた通りの、ピンクのチャイナ風シャツにチャコールブラウンのスカート。そして、手には馴染んだ様子の二胡。
間違いない。
僕は駆け寄って声をかけた。

「あの、」

彼女は顔をあげない。
人違いだろうか。いや、そんな筈はない。
もしかして怒ってる?
そう思って腕時計を確認した。約束の2分前。ぎりぎり遅刻にはなっていないけれど。

「えっと、メイコさん、ですよね?」

心持ち近づいて、名前を確認してみる。
すると、彼女はぱぁっと顔を輝かせた。

「カイト君?」

甘くて柔らかい声。データ化された音声も素敵だったけど、やっぱり肉声は段違いだ。

「そうです。あの、お待たせしてすみません」
「ううん、こっちこそ気づかなくてごめんなさい。地声は少し高めなのね。歌ってる時の声とだいぶ違うから、別の人かと思っちゃった」

耳には結構自信があったのにな。
そう言ってふんわり微笑むメイコさんの視線は、僕の顔からは少しずれた所に向けられていた。
彼女が身を寄せる赤い門柱に、盲目者用のステッキが立てかけてあることに、僕はようやく気がついた。

なつまち紫陽花


僕達のつきあい自体は結構長くて、もう2年ほど前からメールをやりとりする仲だ。
音楽系のコミュニティサイトで知り合った彼女とは、お互いの作った、あるいは演奏した曲や歌った歌を、データにして交換しては聴きあい、感想を交わすという関係をずっと続けてきた。
僕より少し年上だという彼女。
自らが弾く二胡に乗せた歌声は明るく澄んでいて、僕はすぐにファンになった。
彼女もこちらの歌を気に入ってくれたらしく、別録りしたデータを重ねて、合唱・合奏もどきを何度か。
地元を離れてこの街にある大学に通うと決めた時、実はほんの少しの期待があった。
ここは彼女の住む街でもある。
もしかして、ひょっとしたら、「会おうか」の一言が出るかもしれない。
入学して一月が経った頃、送られてきたメールの中にその言葉を見つけた時は思わず部屋でガッツポーズをとってしまった。

下心かと訊かれれば、まぁその通り。でも別に疚しいことを考えていたわけじゃない。
ただ、共通の趣味を持つ彼女とお近づきになりたかっただけだ。
隣県への遠征もままならないほど金にも時間にも余裕がなかった高校時代を経て、やっと掴んだ大学生活。それくらいの潤いを求めたってバチは当たらない筈だ。

「……多分」
「え、なぁに?」
「いや何でもないです!」

声に出ていたらしい。危ない危ない。
メイコさんは「変なの」と言って、またしてもふんわりと微笑った。
まろい肩で、ケースに入った二胡が揺れている。
空模様はいわゆる天気雨で、辺りは初夏の陽光そのままに明るい。日々色を濃くする緑の葉や、盛りを迎えた花達を、煙らせるように霧雨が降る。
様々な色の光を集めては反射する小さな水滴。そんな雨を髪や肌に纏って笑うメイコさんは本当に綺麗だった。
目が見えないとはとても思えない程、しっかりとした足取りで僕の先を行く。
「危なげないですねぇ」と思わず感心すると、「だって生まれ育った街だもの」と誇らしげな返事をされた。

* * * 

観光案内をしてくれるという彼女と一緒に、名物の角煮まんじゅうを買って、店先で立ち話。軒から雨垂れが落ちてきて、僕の頭で小さく音をたてた。

「あ、カイト君、帽子かぶってるでしょう」

紅茶色の瞳をくるりときらめかせて、メイコさんが指摘する。

「しっかりした素材の。ひょっとしたら撥水加工もしてあるかな」
「正解です。よくわかりましたね」
「ふふ、面白い音がしたから。ぱつんって弾けるの。雨の日って好きよ。いろんな音がしてすごく楽しい」

言葉通り弾むような足取りで、メイコさんは歩き出す。
僕は慌てて後を追う。
さっき下車した駅からもう一度路面電車に乗って、今度は居留地のある方へ。
観光客なら皆訪れる庭園に、「裏口から入るからね」と彼女は言った。その方が坂道を上らないですむらしい。県外からやってきて、坂と階段の多さに辟易していた僕にはありがたい。

路電の中は混んでいて、僕はメイコさんが潰されないように、腕をつっぱって他の乗客からガードした。
意図せず(本当に!)体が密着するので、その緊張をごまかすために口を開く。多少しどろもどろなのはご愛嬌。

「あー、その、雨が降ってると周囲の音が聞き取りにくくて大変だったりしませんか」
「うん、土砂降りだとそうね。他の音がぜんぜん聞こえなくて怖いくらい。でも、しとしと降る雨はとってもいいわ。耳に届く音が、いつもより優しくなるの。 飛行機のジェットとか車のクラクションとか、思わず身を竦めちゃうくらいの鋭い音がね。この路電のブレーキ音なんかも、雨がクッションになって柔らかくな る」

タイミング良く停まった電車が、ギィ、と車輪を鳴かせた。
確かに、どこか控えめな音に思える。
本当ですねと僕が言うと、メイコさんは嬉しそうに頷いた。

そっと耳を澄ます。漂うような霧雨が奏でる、さぁぁという微かな音。
僕には意識しないと聴こえない音が、メイコさんの耳には常に響いているのだろう。
裏路地の猫の鳴き声や、庭園に続く斜行エレベーターの稼働音も、彼女の耳を楽しませているに違いない。
目が見えないメイコさん。
聴覚が多くを占めている彼女の世界。
パソコンを通して僕が届けていた歌は、メイコさんの世界を少しでも明るくできていたのかな。
そうだったらいいなと僕は思った。

* * *

庭園は想像していたよりもずっと人が多かった。

「有名な観光地だし、このくらいの雨じゃ景観も損なわれないでしょうからね。晴れの日ばかりがいい天気じゃないわ。特にこの街にとっては。むしろステータスシンボルみたいなものよ」

彼女の言葉通り、周囲の人間の中に傘を差している人はいない。むしろ歓迎しているようにさえ見える。
洋館が建ち並ぶ園内は異国情緒に溢れていて、お上りさんである僕にとってはどこを見ても楽しかった。
建物、植物、道行く人々。園内では衣装の貸し出しもやっているらしく、レトロなドレスを身につけたお客達が、そこかしこで記念撮影をしている。
ふと気になったのだが、メイコさんはここにいて楽しいのだろうか。
景色を楽しむにはもってこいの場所だが、何も見えない彼女にとっては退屈かもしれない。この街初心者の僕を気遣って案内してくれているのだろうけれど、一人だけ舞い上がっていても意味がない。
園内に一つだけあるという喫茶店にでも寄ろうかと、提案しようとしたその時だった。

「湿度が高いと、花の匂いも濃くなるわね」

僕の思考を読んだみたいに、メイコさんが静かに呟く。
白い手が、道端の紫陽花に伸びていた。

「ここはいつ来ても花が咲いてるの。今の季節なら、薔薇と紫陽花かしら。ねぇ、この紫陽花は青い色をしてる?」
「え? あ。はい、青いです、けど」

そっか、と呟く横顔はどこか楽しげだ。心配は空回りだったらしい。
そうだ、ここは彼女の街なのだ。
どこに行けば何が楽しめるかなんて、知り尽くしているに決まっている。
僕は少しほっとして、肩の力を抜いた。
彼女が楽しんでいるのなら、僕があれこれ気を揉んでいても仕方がない。

「私、小さい頃はちゃんと目が見えていたの。この庭園にだって何度も来たわ。ここの紫陽花はね、日を追うごとに赤くなっていくのよ」

宝物の在処を教えるような口振りで。
「じゃあ、来る度に楽しみが増えますね」と僕が言うと、彼女は花が綻ぶような笑い方をした。

「そうなの。自分の目で見ることはできないけど、こうやって人に確かめて貰うことはできるもの。紫陽花は毎年咲いて赤くなって、私はそれを教えてくれる人と一緒にここを訪れるの。それってすごく素敵なことよね」

* * *

濃厚な味のびわソフトクリームを舐めながら、庭園から海岸通りに抜ける坂道をのんびりと下る。
本来はここを上って庭園を目指すのが一般的らしく、ガイドブック片手に足を励ましあう観光客と何度も擦れ違った。
長い長い石畳の坂を丸ごと下りに出来たのは、やっぱり幸運なことだったみたいだ。
僕は心の中でメイコさんに感謝した。
その彼女は、坂の両脇に連なる土産物屋に次々と立ち寄っては、いろんな物を僕の手に握らせた。

可愛い音色のオルゴール。すべすべした手触りの、招き猫やフクロウの置物。息を吹き込むとぽこぽこと鳴る、華奢な造りのビードロ。
なるほど、目が見えなくても十分に楽しい道のりだ。
メイコさんは店の人達とも顔見知りみたいで、気安い挨拶を交わしては、一言二言、世間話をしていた。
カステラ屋のおじさんが、「持って行きな」と紙袋を持たせてくれる。
中に入っていたカステラの切れっ端を食べ終わる頃、坂道は終わり、目の前には瑠璃色の海が開けた。

「凄いなぁ……!」

胸一杯に吸い込んだ潮風を吐き出す息にのせて、感嘆の声をあげる。
それくらい美しい海だった。
さっき高台から見下ろした時も綺麗だと思ったけれど、景色の一部として眺めるのとは全然違う。
眼前に広がる海原は、陽光に輝く霧雨に彩られながら、静かな波を生み出していた。
彼方には、湾の対岸がくっきりと見て取れる。

「私、ここでよく二胡を弾いたり、歌ったりするの。気持ちいいわよ」
「わかります。目の前は海、背後は山で、まるで音楽ホールみたいですね!」
「そうそう。舞台に立ってるみたいな気分になるのよね。晴れた日はね、風がどこまでも音を運んでくれるの。きっと対岸まで届いてるって、そう思えるわ」
「聴いてみたかったなぁ。今日は雨で残念です」

心底惜しくて呻くと、メイコさんは「あら、そんなことないわよ」と言って踵をかえした。
彼女の歩む先には屋根と柱のみの休憩スペースがあり、木製のベンチが置いてある。
スカートの裾をさばいて腰掛けたメイコさんは、ケースから二胡を取り出した。

「こんな霧雨の日はね、音が雨粒を伝って、柔らかくにじみながら広がっていくの。それも面白いわよね?」

付き合ってくれるでしょう?
くるんと悪戯っぽい瞳。
何も見えていないなんてことはない。
彼女には何でも見えている。僕にも、誰にも見えない物までちゃんと。
喜んで、と僕は応じた。

「じゃあ、曲はこの間合わせてみたヤツで。あれならすぐにでも歌えます」
「OK、生音声でコラボね」

きゅっと口角をあげた彼女の手が、美しい音色を奏で出す。
主旋律を歌うのは僕。そして要所ごとに添えられる、メイコさんのコーラス。
空は相変わらず青く晴れて、霧吹きで散らしたような雨も未だにやまない。
全てがきらめく空間を、二胡の音と歌声が包む。
道行く人が振り返るが、それはこの際気にしない。
僕は彼女の隣に立って、歌と、彼女の横顔に意識を集中させた。
夏に向かう街は活気に満ちていて、海も山も街並みも人を惹きつけてやまないけれど、この瞬間、一番魅力的なのは間違いなくメイコさんだ。
彼女自身はそれと知ることはないだろう。
けれど、紫陽花の色の移り変わりと同じように、彼女と一緒にいる誰かが教えてあげればいいのだ---例えば僕が。

口元が緩むと、つられたように喉も大きく開く。
我ながら現金だとは思うけれど、メイコさんが「いい声ね。その調子」と言ってくれたので結果オーライだ。

視界の端に、さっきまでいた庭園が見えた。
あの紫陽花が赤く染まりきる頃、もう一度彼女とこの道を歩こう。
夏が来るのが待ち遠しいな。
そんなことを思いながら、僕は大きく息を吸い込む。

(sm3664934)

HOMETEXT
 
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