薄闇の中から歌姫の細い声が聞こえる。

高い高い天井から吊り下がった幕の向こうには、人々のざわめく気配。
もうすぐ幕が上がるのだ。

舞台袖の暗がりの中で、団員達が蠢いていた。
蛇のように体をくねらせる女や、一つ目の男、片足の軽業師に盲目の踊り子達。
そんな異形の者達の姿を、娘ははっきりと見たことがない。
闇の中にいる時はもちろんだが、皓々と照らされるステージの上にあっても、彼らの姿は判然としない。
見ようとすれば目の前がすぐさま霞み、その姿はただの影に変わる。
彼らから見れば、娘の方もそうなのだろう。
だから口をきいたこともない。
座長の謳い文句でそれと知れるだけだった。
その座長の姿すら、娘は目にしたことがなくて。

彼女の眼にはっきりと映るのは、獣の肢の歌姫と、双頭の子供と、人狼---彼女に傅く青い獣。
それで全部だった。

このサーカスに囚われて、もうどれほどになるのだろうか。

焚かれた香に煙る頭でぼんやりと思う。
思うだけ。
考えたり数えたりしたことはない。
しても無駄なことだから。

床に座り込んだ娘の視界の隅を、影がよぎった。見せ物達とはまた別の影が。
あれはこのサーカスの裏を担う黒衣だ。
全身を黒い布で覆い、袖から裾から地面にぞろびかせてうろつき回る者達。
彼ら---性別も、あるいは本当に人間なのかも知らないが---は、見せ物達を管理し、調達し、舞台に引きずり出すのが仕事。

このサーカスとの関わりは、その黒衣のうちの一人の袖を娘が掴んだ、あの夜に始まったのだ。

耳の奥で谺する、双子の子供の無邪気な声。
あれはまだ、あの子らの体が二つに分かたれていた頃の記憶だ。

---森のね。
---奥の奥にあるんだ。
---そのサーカス。

そう言って笑っていた。
そのサーカスに行けば、なんでも願いが叶うのだと。

家族を救いたい一心で掴んだ黒衣の服の袖の、濡れた砂を握ったような感触を覚えている。
とんでもない間違いを犯したと気付きながらも娘はその一歩を踏み出すほかなかった。

---何でもするから、わたしの妹を助けて。

Cirque du Foret-noire(前編)


檻に鍵が掛けられた瞬間、緊張の糸が切れた。
手足の震えを止めることもできずただ板張りの床に倒れ込む。
体が床に密着することで、疼くように脈打つ鼓動が体中に伝わった。
息が浅い。もっと深く空気を吸い込みたいと思ったが、恐怖に痺れた体が言うことを聞いてくれるはずもなくて。
頬に触れた髪が冷たかった。全身に滲んだ汗が夜の闇に冷やされていく。
自分の血まで凍り付きそうに思えて、娘は両手を擦りあわせた。
大丈夫。まだ温かい。
最初の夜を耐えきったのだ。

生き延びた実感がようやく湧いてきて、娘はのろのろと身を起こした。
まだ妹との約束が残っている。

・・・・・・どこにいたって、あなたのために、毎日必ず歌を歌うからね。

翡翠の瞳を思い出す。寝かしつけるために撫でてやった髪の柔らかさも。
幼い頃に足の自由を失い、今は病魔に冒され、美しい歌声を奪われた妹。
たった一人の大切な家族だった。
無惨に掠れてしまったあの声が瑞々しさを取り戻せるなら、何だってする。

「ただいちばんのさいわいにいたるために」

神の祝福の届かない場所で、まるで祈りを捧げるように。
毎晩読み聞かせた物語の一節をひりつく喉で呟き、唇に歌を乗せた。

---赤い目玉のさそり
---広げた鷲のつばさ
---青い目玉のこいぬ
---光のへびのとぐろ

うう、と檻の横側から唸り声が聞こえ、娘の舌は凍り付いた。
この声。この響き。
それは、娘がついさっきまで対峙していた獣のものに相違なかった。

思い出すだけで体に震えが走る。
見た目は人とそれ程変わりがなかった。
娘とそうかわらない年頃の男。最初はそれだけに見えた。
だがその手と足の爪は、地面を抉り柱を削り、抑え役の黒衣達のうち数名までもを屠ってみせた。
人狼。魔狼に咬まれた人間が変ずるという半人半妖の獣。
お伽噺の中でしか聞いたことがなかった、化け物。
あの恐ろしいばかりの力と、鋭い爪!
思い出すだけで、体中に残された傷の痛みが増す気がした。
あんなものが実際にいて、自分がそれに殺されかかったなど、悪い夢としか思えない。

---いっそ夢であれば良かったのに。

鍵穴の近くに灯された蝋燭の明かりを頼りに、闇の先を透かし見る。
鉄柵の向こう、隣の檻の中にそれは蹲っているようだった。

舞台の上では動きを止めることすら稀だったのに、今はその声がどこか弱々しい。
流石に疲れたのか。それとも空腹に喘いでいるだろうか。

どちらにせよ、人狼が弱っているのなら、それは娘にとって福音と呼べるだろう。
娘はこれから七日の間、サーカスの舞台の上であの獣と毎晩戦い続け、そして生き延びなければならないのだから。

娘が獣と戦い観客を楽しませ、七日の間生きていられたら。

(妹の足と、病気を治してもらえる)

たった一つの武器として持たされた短剣を握りしめる。
死ぬ訳にはいかない。妹に必ず帰ると約束したから。
自分を失った時の妹の悲しみを思うと、それは死よりも余程恐ろしい戦慄となって娘を襲うのだった。

---いってらっしゃい、お姉ちゃん。

行き先も告げずに家を出る姉を見送った、車椅子の儚い姿。
負けるものか。わたしは絶対に、あの子の待つ家へ帰るのだ。
己を奮い立たせるように---あるいは恐怖を紛らわせるように。
悴む唇を叱咤し、娘は歌を歌った。




二日目の晩。
この夜もまた、猛り狂う魔物の牙を避け、爪を剣で弾き続けた。
出番が終わればただ檻の中で恐怖を宥め、そこかしこに出来た傷の手当てをするだけ。
おそらくは夜が明けているだろう時間になっても娘のいる檻に陽は差さなかった。
真夜中よりはいくらかマシという程度の暗がりの中、抱えた膝を覆うスカート以外に見る物がない。
娘の赤い服は所々更に深い朱に染まっていた。
もう少し時間が経てば、それは鈍い赤茶色へと変わるだろう。

偶に通りすがる見世物達に視線をやれば、彼らは顔を覆って逃げ出した。

「見るな! 見るな! 腐ってしまう!」

何のことかよく分からなかったが、ともかくまともな会話が成立しないことは理解した。
黒衣達は沈黙に徹し、そもそも彼らと喋りたいとも思わない。

---赤い目玉のさそり

妹のために、何度も歌った歌。その響きは孤独に溶けた。
耳に残る妹の歌声だけが娘の慰めであり、隣の檻から聞こえる獣の微かな呻きだけが更けてゆく夜の連れだった。

獣は青い髪の毛を持つ青年の姿をしていた。
薄汚れてはいたがシャツとズボンを身につけて、二本の足で立つその姿は、普通の人間と殆ど変わらなかった。
ただ、青白く光る瞳と鋭すぎる手足の爪だけがあまりに異様で、異質で。
人と似てはいても、絶対に相容れることのない生き物に思えた。

だからその獣が話しかけてきた時、彼女は心底驚いたのだった。

そう、その日は何かがおかしいと思っていた。
獣の動きが昨日に比べて鈍かったのだ。
いや、鈍いというよりも---手を抜いている、というべきか。
決定的だったのは、娘が足を縺れさせ、倒れ込んだ瞬間のことだ。
その牙を喉に食い込ませれば簡単に息の根を止められる、そんな場面で、奴は娘の服を爪で引っかけ、放り投げた---まるで遠ざけるように。
期せずして時間と距離を稼いだ娘はすぐさま立ち上がり、戦いは振り出しに戻った。

娘はあの人狼の餌だ。
彼女が今生きている以上、人狼は昨日から何も口にしていない筈。
腹を空かせた獣が目の前の贄を戯れに突き放すだろうか---

未だ整わない呼吸と止まらない体の震えを歌で慰めながら、舞台の上での出来事を反芻する。
その時だった。
横手から声がかかったのは。

「・・・・・・赤い目玉のさそりって何だ」

ひっと声が漏れた。
隣の檻で闇が蠢き、獣がのそりと近寄ってくる。

化け物が口をきいた。
あまつさえこちらへ寄ってきた。

互いの檻を隔てているとは言え、その恐怖は容赦なく娘を串刺しにした。
頭がついて行かず、後ずさろうとして付いた手にも力が入らず、娘はその場に半ば倒れ込んだ。

「どうして黙ってる。もう囀らないのか」

は、と息を吐き出し、慌てて吸い込む。
どうする。何か応えた方がいいのだろうか。
獣の気分を損ねて暴れ出しでもされたらかなわない。
あの嵐のような力を目にした後では、頑丈な檻も心許なく感じられた。

「さ・・・・・・さえず、る?」
「お前は昨日囀っていただろう。鳥みたいに一晩中。日が昇ってまた沈んでも。今はどうして黙ってる」

言葉は流暢で、声もまた普通の青年のそれだった。
昨日今日と咆吼ばかりを聞かされた耳にはどこか優しげに響いた程だ。

「・・・・・・あれは、歌よ。わたしは歌を、歌ってたの。妹と・・・・・・約束した、から」
「歌。歌を、うたう。ふぅん」

興味があるのか、ないのか。
獣は更にこちらへ躙り寄った。
蝋燭の明かりが届く範囲までその姿が近づき、青い髪が鉄柵に触れる。

「それで、赤い目玉のさそりって? さそりはあの毒虫だろう」
「・・・・・・昔のバルドラの野原に 一匹のさそりがいて」

語り出すと、意外な程に容易く言葉が続いた。
何度となく妹に話してやった物語だった。
目を閉じる。
さぁ、ここに妹がいて、寝物語を聞かせていると思え。

「そのさそりは小さな虫などを殺して食べて生きていたんですって。
けれど、ある日いたちに見つかリ食べられそうになって、さそりは一生懸命に逃げて逃げたけれど、とうとういたちに押さえられそうになって、目の前にあった井戸に落ちて溺れ始めてしまった。
その時さそりは祈ったの。」

---ああ、私は今まで幾つの者の命をとったか分からない、そしてその私が今度いたちにとられようとした時はあんなに一生懸命に逃げた。
それでもとうとうこんなになってしまった。ああ、何にも当てにならない。
どうして私は私の身体を黙っていたちにくれてやらなかったろう。
そうしたら、いたちも一日生き延びたろうに---

「『どうか神様、私の心をごらんください。
こんなにむなしく命を捨てず、どうかこの次にはまことの皆の幸せのために私の身体をお使いください』--- そう言ったというわ。
そしたらいつかさそりは自分の体が真っ赤な美しい火になって燃えて、夜の闇を照らしているのを見た。そんなお話よ」

語り終えて獣の様子を伺うと彼はじっとこちらを見ていた。
緊張に喉が鳴る。一体なんだというのか。
獣は目を逸らせなくなった娘を見据え、そしておもむろに口を開いた。

「お前、もう家に帰りな」




三日目の晩。
サーカスの幕が開いている間は今までと変わらない爪と剣との応酬が続いた。
耳に届く人々の歓声が煩わしい。獣の爪が娘の腕を掠れば喝采をあげ、娘が獣に蹴りをくれて距離をとれば溜息を漏らす。

---忌々しい。

皆、若い娘が惨たらしく引き裂かれ、喰い殺されるのを望んでいるのだ。
そんな観客の反応が分かるのはやはり、獣の動きが対峙している娘にしか気付かれない程度に鈍いからだ。
息があがる。汗も流れる。裂かれた肌から血も出るが---致命傷は与えられなかった。

なぜ、今一歩で手を緩める。

疑問を隠しきれない娘に、檻の向こうで獣が笑った。

「帰れと言ったのに。お前は強情だ」
「・・・・・・どうしてわたしを帰らせたいの」
「お前に勝ち目がないからさ」

喉で笑って獣は言う。

「月が満ちる。俺の力はどんどん強くなる。俺が手加減してることに、お前も気付いてるんだろう?
これから先はそれも難しい。月の出ている間は人の意識を保っていられなくなるんだ」
「あなたは、そもそもどうして手加減なんてしてるのよ。お腹が空いてる筈でしょう」
「お前は喰われたいの」
「・・・・・・嫌だけど」

くくく。人そのものの笑いが暗がりの空気を震わせた。

「お前は面白い。お前とやりあうのは楽しいよ。囀りも・・・・・・歌も、いいと思う。
少なくとも、俺をここに閉じこめている連中よりよっぽどマシだ。
腹が減るのくらい我慢してやってもいいさ。
お前が俺の餌になって、連中と観客が喜ぶのを見るのは癪なんでね。
奴らに何を願ったか知らないが、それは万に一つも叶わない。
最後の夜は満月だ。俺は餓えと血に狂う。お前には太刀打ちできない。
俺に殺されないうちに、諦めて帰れ」
「・・・・・・いや。嫌よ! 私は妹を助けたいの。普通の方法じゃ、妹の病気は治せないのよ!」
「その妹のために帰れと言ってるんだ。せめて死に際に立ち合ってやれ」
「〜〜〜っ!! 煩いわよ、馬鹿犬!!」

ぎり、と奥歯が軋んだ。
娘が賭に勝つとは欠片も思っていないその口調。
---お前など、すぐにでも捻り潰せるのだと。
---気紛れで見逃してやるからと。
そう言われたも同然だった。

わたしがただ帰ったって妹は助からないのに。
こいつは妹の死を前提にわたしと話している。

娘は耳を塞ぎ、妹と約束した歌を歌い始めた。
きっとこの獣は、わたしの不安を煽り、帰るか戦うか迷わせて楽しんでいるのだ。
何も聞かずに済むよう声を張り上げる。
獣は何か言いかけ、言わずに黙った。



月が満ちて行く。

その次の日も、殺さないかわりに獲物をいたぶる腹積もりなのだろうか、獣はなにくれとなく話しかけてきた。
腹立たしくはあったが無視するのも逃げているようで嫌だ。
元来物怖じしない性格の娘は、自分の方からも疑問を投げかけた。

「あなた、そんなにすらすら喋れるくせに、どうして歌を知らないの」
「ここには歌う奴はいないし、ここに来る前もそんな物は知らなかったし」
「歌って見せ物にならないのかしら」
「このサーカスにとってはそうなんだろうさ。
ガラスを割るような声が出せたり、歌い手が醜悪な姿だったりすれば別だろうけど」

サーカスの連中は観客を集めるのと同じくらい、珍しい生き物にも執着しているんだ。
獣はぽつりと呟いた。

「あいつら、俺のことを手懐けたくてたまらないみたいだ。
人狼はこの辺りには俺だけしかいないらしい。
だから俺を殺さないんだよ。俺の方は、あの黒いのを何人も殺してやったけど」

肉食獣の貌で愉しげに笑った獣は、お前はどこでサーカスとの契約のことを知ったと尋ねてきた。

「・・・・・・妹と仲の良かった双子の姉弟がいて、その子達から聞いたの」
金色の髪に碧い目の双子。
そういえばあの二人はどうしたのだろう。
願いは叶ったのだろうか。
それとも途中で引き返したか。
自分のように危険なことをしていないと良いのだけれど。

「何を願っても無意味なんだ」と、獣は言う。「願いが叶っても、そのツケを永遠に払い続ける羽目になる。このサーカスでな」
人々を惹き付ける容姿を望めばその姿は奇怪に捻れ。
才能と妙技の会得と引き替えに四肢や眼球をもがれ。
そして永遠の命を願えば、得た時間の全てを闇の中で過ごさねばならない。

「結局、このサーカスの見世物になりに飛び込むのと同じさ」
「あなたは何を願ったの。それは、叶った?」
「俺の願いは叶わなかった。だからあいつらは俺を完全に支配することができないんだ。
ただ珍しい人狼をみすみす逃がす気はないらしい。それでずっと閉じこめられてる」

黒衣を殺せる程の力があっても、この闇の軛からは逃れられないのか。
娘は己の肩を抱いてぶるりと震えた。

「・・・・・・私も、ここから出られなくなるのかしら」
「対価を先払いして願いが叶った例は知らないな。
大概は失敗して死んで終わりだ。残りは途中で諦めて逃げ出せた幸運な奴らが一握り。
賭や契約自体が無かったことになるから、ここは『願いが何でも叶うサーカス』のまま。
なぁ、奴らがお前と交わした契約の中に、お前が俺を殺した場合について触れた部分はあったか?
あの強突張りどもが、ただの小娘に貴重な人狼を殺された場合の対価を求めないなんてことはありえない」

つまり、あの黒い者達は、娘の願いを叶える気など最初からないということか。
いや、叶えることはできるのだろう。
娘にその条件が満たせるとは少しも思っていないだけで。
娘は唇を噛みしめた。
この獣は、だから賭自体を無効にしてしまえと言っているのだ。
それは気遣いや厚意と呼べるのかもしれない。
けれど・・・・・・けれど。

「お前の願いは叶わない。叶い始めてるのは・・・・・・多分、俺の願いだ」
「あなたの願い?」

獣は答えなかった。

そろそろ陽が落ちる時刻なのだろうか。辺りは完全な闇に包まれていた。
五日目の幕が上がろうとしていた。


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