それがこの人の本当の幸せになるなら、自分もまたこのサーカスに囚われて百年彼の傍にいてもいいと思いました。

Cirque du Foret-noire(後編)


六日目。
その日、獣は殆ど口をきかなかった。
彼の衰弱は著しく、微かに耳に届く呼吸がどこか苦しげで、娘の歌声はそれを気遣うように小さくなる。
妹のためではなく青い獣のために歌っているような気分だった。
---殺し合う相手を何故気遣っているのか自分にもよくわからない。
隣の檻の中に力なく横たわる獣の瞳が、妹を彷彿とさせたからかもしれない。
波に浚われていくのを待つ砂の像のような瞳。
その視線が、ふと娘に向けられた。歌が止まる。

「・・・・・・喜べ。目が殆ど見えない」

吐息とかわらぬ囁きだった。
思わず、え、と声が漏れた。

「だから、できるだけ距離をとって死角に回り込め。力の加減は期待するなよ。危なくなったら剣を使うんだ」
「い、言われなくたって」
「・・・・・・どうだか」
「これまでだって、わたしは剣を振るってきたじゃない! あなたの手や腕の傷は誰がつけたと思ってるのよ!」
「お前は俺の牙や爪には剣を向けるが、俺自身にはそうしない」

張りのない声で断言され、娘は一瞬言葉を失った。
事実その通りだった。

「それは・・・・・・それは、あなたが素敏いから。だからこっちに向かって来る手足部分しか狙えなくて、それで」
「つまり、動きの鈍い今の俺であれば胴体でも狙えるわけだな。ならそうしろ」

血を流させて消耗を誘え。
まるで自分自身を敵と見なしているかのような口ぶりだった。

「・・・・・・あなた変よ。わたしが戦うのは、剣を向けるのは、あなたなのに。
どうしてそこまでわたしをけしかけるの。おかしいでしょう」
「余計なことを考えてると死ぬぞ。お前は餓えた獣と対峙するんだ。それを忘れるなよ・・・・・・」



餓えた獣。
その恐ろしさを娘は舞台の上で目の当たりにすることになった。
衰弱した体をふらつかせてはいたが、形振り構わぬ爪は容赦なく獲物の肉を抉った。
視界が利かない苛立ちをぶつけるような暴れ方に身が竦む。
ごっそりと肉を持っていかれた左肩が血を失って痺れる。
逃げ回る足のスピードに震える膝が付いて行かない。
受け身すら取れずに転んだ娘に、振り翳された獣の爪が迫った。
それは二日目の晩と同じ状況だった。
あの時は獣の気紛れで難を逃れた。
だが今は---

---力の加減は期待するなよ。

(---いや!!)

恐怖と衝動に突き動かされ闇雲に手を振り上げた。
その手に握られた短剣の刃が獣の脇腹に突き刺さる。
どっという鈍い音と手応えが伝わり、一瞬遅れて血飛沫が降り注いだ。

「!!!」

娘の声にならない悲鳴は、獣が倒れ伏した音と沸き上がった歓声に掻き消され、そして---


気が付くといつもの檻の中にいた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
鉄格子の輪郭を目で辿れる程の薄暗さは、既に夜が明けていることを教えていた。
全身がずぶ濡れだった。
戦慄く両手を蝋燭に照らすと、指を伝う水が薄く赤みを帯びている。

---そうか、体中に血を浴びたから。
---洗い流すために水をかけられた。

---血。彼の。

力の入らない足を引き摺って檻の鉄柵に飛びついた。
隣の檻に目を凝らす。

いない。彼がいない。
どこにいったの。
どこにいるの。

---どこにもいないの?

「っ! ・・・・・・!!」

呼び掛けようとしてその名を知らないことに気付く。
震える唇から嗚咽が漏れそうになった瞬間、視界の隅で黒衣の裾が翻った。
弾かれたように顔を上げた娘の目の前で隣の檻の扉が開く。
どさりと音を立てて青い獣が放り込まれた。
黒衣はすかさず鍵を閉めて去っていく。
微かに漂う血の臭い。腹部を見れば布らしき物が巻かれ、多少の手当は施されているらしい。
痛みにか、床にぶつかった衝撃にか、低く呻き声があがった。

生きている。

全身から力が脱け、鉄柵に体を凭れさせた。
吐き出した息は零れかけの涙で湿っている。
不規則で急激な拍動を強いられた心臓が今にも壊れそうだ。

獣が生きていることに、これ程安堵している自分が信じられない。

化け物とはいえ誰かの命を奪わずに済んだからか。
それとも隣り合って同じ時間を過ごした彼に情が湧いたか。

(後者だわ)

娘は素直に認めた。
ここで過ごした最初の夜の砕け散りそうな程の孤独を思い出す。
二日目からは獣が話しかけてきて、それで寂しさが紛れた。
敵だった。それと同時に救われてもいた。
どれだけ矛盾していてもそれは事実だった。
ならばもう否定はするまい。

もともと自分は僅かな可能性に縋ってこんな世界に足を突っ込む馬鹿者なのだ。
だから命を脅かす相手を心配する愚かさも受け容れよう。

楽な体勢を探して身じろぎした獣の腕が、鉄格子の間から力なく垂れた。
血と泥がこびり付いた傷だらけの手に柔らかく白い手が重なる。
薄く目を開いた獣が、掠れた声で娘をからかった。

「慈悲深いことだ。お前は皆の幸せとやらのために今にも燃え出しそうな勢いだな」
「あなたに言われたくないわよ。空腹のくせに獲物を見逃す青い目玉の馬鹿犬さん」

言い返した娘に、獣は呼吸のついでのような笑い方をしてみせた。
息を吐き出すのに合わせて弱々しい歌が零れ落ちる。
それは娘が毎日繰り返し奏でた歌だった。

---赤い目玉のさそり 広げた鷲のつばさ

獣が口ずさむ歌に、娘の声が静かに寄り添う。

---青い目玉のこいぬ 光のへびのとぐろ

「・・・・・・最初の晩、お前は歌ってた。次の晩にはさそりの話をした。
ここにいない誰かのためにそうしているのがすぐに分かった。
帰る場所があって、帰りを待つ誰かがいるなら、お前はそうするべきだと思った・・・・・・」

お前はここを出ていける。俺とは違って。

「・・・・・・ねぇ、あなたは本当にここから出られないの」
「出られない。閉じこめられているから・・・・・・。
違う、本当はここから出たくないのかもしれない。
ここを出て自由を得ても俺はそれを幸運だなんて思えないだろう。
そう思えるなら、最初から願ったりしなかった---」
「願ったって、何を」

獣は答えなかった。
朧気な光を宿す瞳で娘を見つめ続けるだけ。
縋るような視線が余りに痛々しく、触れている手に力を込めた。
その手を、獣が微かな力で握り返す。

彼が人の意識を失うまで今しばらくの時間があるはずだった。

---心を持つ者同士が寄り添い合って何が悪い。

月が昇るまで。
それまで、彼はわたしの友人だ。

「お前の妹が羨ましい・・・・・・。
・・・・・・どうして、俺の幸せと、俺の願うものの幸せが同じじゃないんだろうな」

それだけを呟き、獣は気絶するように眠りに落ちていった。




夕闇が忍び寄る頃。
こちらへ歩み寄ってくる足音に気付き、娘は視線をそちらに向けた。
足音だけではない。
笑い声。しかも、子供の。

「・・・・・・あなた達!」

娘の檻の前、闇の中から滲み出るようにして現れたのは件の双子だった。
鈍い光を放つカンテラを手に提げ、互いの顔を寄せ合って。
歪に膨れた外套は一枚の布に揃ってくるまっているせいだろうか。

---ふふふ。
---くすくす。

場違いな程に楽しげな声。
咄嗟に言葉が出ない娘には構わず、小さな手が檻の鍵を開けた。
きぃ、と小さく金属が鳴く。
目の前には底なしの闇が広がっていた。

「え・・・・・・?」

あっけなく開いた扉に戸惑う。
これはどういうことだ。
この双子は、自分を逃がそうとしているのか---?

---ついてきて。

二人の子供のうち、どちらともつかぬ声が囁く。
娘は繋いだままの手と血の気の失せた獣の顔に目を遣った。
未だ目を覚まさない彼。
この檻を出れば、彼を一人置き去りにすることになるのだろうか。
迷う娘の前で、双子が揃って踵を返した。
カンテラの灯りが遠ざかる。
おずおずと指を離し、娘は双子の後を追った。


---はやく、はやく。
---こっちだよ。

揺れる灯りは闇の奥へ奥へと進んでいく。
獣に抉られた左肩を庇いながら娘は走った。
どこへ向かおうとしているのか。
双子と娘が駆けていく通路の両隣には見世物達の檻が立ち並ぶ。
猛獣の檻、どこが頭でどこが手足かも分からぬ者達の檻、ただ奇声のみが響く檻。
その間を駆けて、駆けて、ある檻の前で双子は立ち止まった。
奇妙な檻だった。
カンテラの光では全体を見渡すことは出来ないが、とにかく大きく、そして上に行くに従って丸みを帯びている。
まるで巨大な鳥籠だ。

「・・・・・・ねぇ、これは?」

中に何がいるのか、それとも空なのかすら分からず、娘は双子に尋ねた。

---あのね。
---ぼくたち、願いを叶えてもらったんだ。

娘を見ずに双子が言う。

---そしたらあの黒いお化けが、お姉ちゃん達の家に行けって言ったの。
---小さいお姉ちゃんに会って来いって。

小さいお姉ちゃん。それは娘の妹のことだ。
背筋をじっとりと不安が舐めた。

---小さいお姉ちゃん、大きいお姉ちゃんのこと心配してた。
---どこに行ったのか、何しに行ったのか分からないって。
---だから教えてあげたんだ。

「お・・・・・・教えたって!」

---大きいお姉ちゃんは暗い森のサーカスに行ったよって。
---小さいお姉ちゃんの足と病気を治してってお願いしに行ったよって。
---そしたらね。

くすくすくす。
双子が漏らす忍び笑いが耳朶を打つ。
その不気味なリズムにつられて、娘の心臓の鼓動が次第に速く大きくなっていく。

---小さいお姉ちゃん、言ったんだ。
---『そのお願い、わたしが先に叶えたらお姉ちゃんは家に帰れるの?』って。
---そうだよって答えたらね。
---『わたしを、もう一度自分の足で立って、歌を歌えるようにして』って。

---そのお願い、叶ったよ。

双子が傍らの紐を引く。天幕の一部がめくれ上がる。
鳥籠の中に夕日の残照が差し込み、「それ」を照らし出した。

緑色の長い髪と白いドレスの裾を床に這わせて座り込んでいる少女。
あまりに見覚えのあるその後姿。
家で娘の帰りを待っている筈の妹だった。
瞬きすらできずに見つめ続ける娘の視線の先で、少女はゆらりと立ち上がった。
こちらに背を向けたまま歌い始める。
その響きは美しく、しかし陰鬱で、不吉で。
人のものではないようで。
背筋を駆け上る戦慄のままに妹の名前を呼ぼうとし・・・・・・娘は凍り付いた。

妹の名が思い出せない。

「------------!!!!!」

叫ぼうとした名は紡がれず、ただ呼気だけが喉から漏れた。
混乱のまま檻に取り縋り揺さぶるがびくともしない。

「あ、あ・・・・・・あああ・・・・・・!!」

滅茶苦茶な悲鳴が届いたのか、単なる気紛れか、少女はゆっくりと振り返った。
少女の着ているドレスの裾は前に行くに従って丈が短くなるらしい。
よって彼女が完全にこちらを向いた時、娘の目の前にその脚が露わになった。

脚は人のそれではなかった。
後方に向かってせり出した関節。
靴など履いていないにも関わらず、硬質な音とともに床を叩く蹄。
どうみても有蹄類の後ろ肢だった。
妹の瞳は虚ろで、姉を見ても何の反応も示さない。
その額から捻れて生えた角に娘が金切り声をあげても。
微かな笑みを湛えた唇で歌を歌い続けている。

歌い手が醜悪な姿であれば歌も見世物になる。
青い獣の言葉が耳の奥で甦った。

「どうして・・・・・・どうして!!」

妹の願いは叶った。
確かに二本の脚で立って、歌も歌えるようになった。
けれど。

「違う・・・・・・! こんなの、こんなの違う!」

返して。
娘は叫んだ。
返せ。妹を返して。私の妹! 妹の名前を返して!

---大きいお姉ちゃん、変なの。
---どうしてそんなに悲しそうなの?
---小さいお姉ちゃんは幸せなのに。
---願いが叶って幸せなのに。
---だってこれからずっと歌を歌い続けられるんだもの。
---あたし達だって幸せよ。

---だってずっと一緒にいられるんだもの!

双子が身に纏っていた外套をフードごと脱ぎ去った。揃いの金髪が夕日に染まり赤くきらめく。
娘は今度こそ絶叫した。
そこにいたのは双子の子供などではなかった。
体は一つ。足も手も一組ずつ。それをどうして二人の人間と呼べるだろう。
その小さな肩からは窮屈そうに二本の首が生え、それぞれの先に頭が載っていた。
双子・・・・・・いや双頭の何かは頬を擦り寄せあって笑い、鳥籠から異形の歌姫を連れ出した。

---僕ら、この子を舞台に連れて行くんだ。
---今夜のステージの目玉なの。
---そうそう、お姉ちゃんはもう自由だよ。
---だって叶えたい願いはなくなっちゃったもんね?

その場にへたり込んで動けない娘に、無邪気な笑顔で「それ」は言う。

---座長、喜んでたね。
---だってこの世に二つとない見世物が手に入ったんだもの。
---歌姫と、ぼくらとね。
---だからあの青い獣はお払い箱なんだって。
---ちっとも言うこと聞かなくて、黒いのを殺してばかりだし。
---そのくせ人間の娘一人殺せないなんて。
---今夜の舞台でお姉ちゃんを喰い殺さなきゃ、そのまま飢え死になんだ。
---でも、お姉ちゃんは家に帰るんでしょう?
---もし舞台に立ったとしても、今のあいつなら簡単に殺せそうだけどね。

空腹と怪我で死にそうだから。

---あの獣を殺したら、何か別のお願いを叶えてもらえるかもよ。
---もちろん、ここを出て行ってもいいし。

---良かったね、お姉ちゃん。

何も反応できない娘を置いて、彼らは闇の帳の向こうへと消えた。



どこをどう歩いたのか記憶にない。
気が付けば、自分に宛がわれた檻の場所まで戻っていた。
倒れるように中に入る。
鍵は開いたままで、いつまで経っても誰も閉めに来なかった。

体が砂になった気分だった。
このまま崩れて消えてしまえたら良いのに。

・・・・・・いや、この体が砂ではなく血と肉で出来ているなら、まだ役に立つことがある。

微かに嗤った娘は、静かな声で歌を歌い始めた。
その声が耳障りだったのか、隣の檻から掠れた唸り声が聞こえた。
もう陽が落ちたのだ。

「これは賛美歌第306番よ」威嚇に構わず娘は言う。「主よ、みもとに近付かん」

唸がり声はやまない。
だが少しも怖くなかった。
彼にまだ力が残っているなら、それは喜ばしいことだ。

彼は生きるべきだ、と娘は思う。
少なくとも自分よりははるかに賢いこの獣は。
何度も言われた言葉が胸をよぎる。
お前の願いは万に一つも叶わない---その通りだった。
娘の行動はなんにもならなかった。
ただ妹を闇に閉じこめ、優しい獣を苦しめただけだった。

「『どうして私は私の身体を黙っていたちにくれてやらなかったろう』」

娘は獣に向かって呟いた。

体を起こして服を脱ぐ。
食事の邪魔にならないように。
ペチコートドレス一枚になって、短剣を手にとった。

「まだ目は見える? 見えなくても鼻は利くわよね」

顎の下から鎖骨にかけて、斜めに喉を傷つける。
獣が過たず喉笛に食らい付けるように。

「血の臭いを辿っておいで」

あなたにわたしをあげるから、どうか死なずに生き延びて。

そして最後の夜が来る。





舞台には妙なる歌声が響き渡っていた。
高く高く設えられた階《きざはし》の一番上で妹だった何かが歌っている。
その歌声に導かれるように、娘は歩みを進めた。
反対側の袖からは青い獣が引きずり出されてくる。
客席に襲いかからないよう四肢を拘束していた鎖も、それを握っていた黒衣達の姿もなく、その首にロープが一本繋いであるだけだった。
獣は舞台の中央で警戒するように動かない。
裸足の娘は、彼に向かってゆっくりと歩み寄った。
途中で手に持っていた短剣を落とした。
もう必要ない物だった。

この上なく無防備な姿で獣の前に立つ。
餓えよりも失血による消耗の方が激しいのか、彼はこちらに襲いかかることもなく、苦しげな呼気を吐き出していた。
その体がよろめいて床に膝をつく。
爪が木材を引っ掻き、青白く光る瞳が娘を見据えた。
だが、まだ動こうとはしない。
娘は跪いた。
ぺたりと腰を落とし、獣と瞳の高さを合わせる。
接吻を交わす恋人達のような近さでそっと目を瞑った。

もうすぐ終わる。

娘の唇に笑みが浮かんだ瞬間、胸元に彼の手がかかり、床に押し倒された。
首筋にぴりりと痛みが走る。
僅かに爪が食い込んでいるらしい。
この肌が切り裂かれるまで、あと少し。

---だが、その瞬間はいつまで待ってもやってこなかった。

呻き声が聞こえて、娘は目を開けた。
その声はまるで嗚咽のように響いたのだ。

獣は泣いてはいなかった。
ただ苦しそうにもどかしそうに、その顔を歪めていた。

「・・・・・・どうしたの」

娘は思わず訊ねていた。
そうせずにはいられない程、その顔は助けを求めているように見えたのだ。

獣の表情が一際歪み、鼻面が首筋に擦りつけられた。
縋るように。
甘えるように。
人の声帯では出せない響きが娘の鼓膜を直接震わせる。
威嚇ではない。興奮による唸りでもない。

仲間を呼ぶ声音だった。

---俺の願いは叶わなかった。

彼の言葉を思い出す。
娘はやっと気が付いた。
彼が欲していた物。
彼が真に餓えていた物。
この辺りにはもう彼しかいないという人狼。
彼は仲間を、共に生きる誰かを欲していたのだ。

俺にお前を殺させないで。
無声の慟哭が胸を穿つ。

この馬鹿。馬鹿犬。
娘は心の中で叫んだ。喉は涙で塞がっている。

娘の妹が羨ましいと彼は言った。
それは娘の心と歌が妹に捧げられていたからか。
自分にも心と歌をくれる、そんな誰かが欲しかったのか。
その誰かが---

(わたしであって欲しいと思ったの?)

けれど娘は家に帰りたがっていたから。
獣よりもはるかに大事な家族がいたから。
家族がどれほど大切な存在か、求めても求めても与えられなかった彼には痛い程わかっていたから。
だから。

「だから、わたしを生きて家に帰そうとしてくれたのね・・・・・・」

涙が零れる。
止まらない。
この獣は餓えに苛まれている。
けれどもそれより深く永く、孤独という飢餓に苦しんできたのだ。
この瞬間も、彼に人の意識はないのだろう。それでも娘を殺せないほどに。

「・・・・・・あなたも寂しいの」

この言葉はきっと届く。
奇妙な確信をもって、娘は獣に問いかけた。
月が隠れている間の、人の心を持つ彼なら、この問いを否定しただろう。
平気なふりして何でもない口調で、お前などいらないと言ってみせただろう。
娘をここから逃がすために。

獣の腕が、ゆるゆると娘の背に回された。
それが答えだった。

娘の心は決まった。
過ちを、もうひとつだけ。
自分の選択が間違っていることを娘は知っていたが、そんなことはもうどうでも良かった。
彼をこれ以上独りにしないで済むのなら、己の体など百ぺん灼いても構わなかった。
娘は新たな願いを口にした。

「彼の願いを叶えてあげて。わたしが彼の檻になるから」

娘の腕が獣を包んだ。
その頬に、彼の目から流れ出た水滴がぼたぼたと落ちた。
泣かないで。白い手が涙を拭う。

青い目玉のこいぬ。わたしはあなたと共に在る。

娘の体を軋む程抱き締め、獣の喉から絶叫が迸った。




こうして暗い森のサーカスは、猛獣使いの娘と、娘だけに従順な青い獣をその掌中に納めた。






もうすぐ幕が上がる。

記憶を振り払い、娘は薄闇の中へ手を伸ばした。
指先に青い髪の毛が触れ、彼女の片割れが身を擦り寄せてくる。
頭を撫でてやると、彼は満ち足りた顔で娘の腿の上に身を横たえた。

「・・・・・・重いわよ」

そっと窘める。退けとは言わない。言えば彼は従わなければならないから。
奔放な扱いを受け容れて彼が満たされるのなら、娘はそうしてやりたかった。

娘という無二の首輪を手に入れたサーカスは、舞台の上の獣の檻に生きた人間を放り込むようになった。
恐怖に冒されながら死んでいく彼らの冷たい肉を青い獣が貪り喰らう。
頃合いを見てそれを止めさせるのが娘の役目だった。

あの夜からどれ程の月日が流れたのか。
これから先どれ程の月日をここで過ごすのか。
わからないし興味もない。
永遠という言葉の意味を測っても仕方がない。

滲むような薄闇の中に、歌姫の声が響く。
あれを妹と呼んでいた日々もあった---娘の意識がそちらへ向いた。
瞬間、腕に鋭い痛みが走る。
獣の爪に切り裂かれたのだ。

「妹が恋しいか」

娘は首を振った。

「・・・・・・痛いわ」

爪は腕に食い込んだまま。

「ねぇ、痛いわ。やめて。・・・・・・やめなさい」

短く叱責すれば、渋々ながら手が引かれる。
傷口は血が溢れるほど深く、衣装にも滴り落ちたが、気にならなかった。
どうせ舞台にあがる時には消えてしまう。
ここはそういう所だった。

「わたしにはあなただけよ」

嘘ではない。
妹の名前すら思い出せない自分が、どの口で彼女を想っているだなどと言えるだろう。

このやりとりも何度も繰り返されたものだった。
過去の孤独を埋めようというのか、彼は何度でも娘の言葉を欲した。
共に時を重ねることを選んだ娘に対して、彼は何一つ遠慮はしなかった。
娘もそんなものは求めなかった。

あなたにはわたしがいる。
ずっと傍にいる。

事実であり、それを娘の口から確認できれば彼は満足した。
傷口に舌が這わされる。
血を舐めとられながら、しあわせだな、と感じた。

願いが叶ってしまえば恍惚だけがその身を包んだ。
誰も置いていかない。
誰からも置いていかれない。
死ぬことも無ければ、誰もいない家に一人で帰る必要もない。
獣の願いは娘の幸せとぴったり重なった。いちばんのさいわいだった。
娘はもうここから出たいだなどとは考えなかった。
それはあの歌姫や双子も同じだろう。
ずっと歌える。ずっと離れない。
毒のように甘い幸福を、ただ貪り続けていればいい。
このサーカスは望みを叶えた者達が集う場所なのだから。

---赤い目玉のさそり
---青い目玉のこいぬ

かつて妹のためだけに歌っていた歌を、今は青い獣のために。
辺りに広がるのは闇。
目を開けていても閉じていても変わらない。
盲目の幸せに浸りながら娘は思う。

わたしはこんなにしあわせなのだから、皆にもそれを分け与えなくては。
そのためならわたしのからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。


ここは暗い森のサーカス。
宵闇の歌姫の声で眠らぬ月と太陽が紛い物の光を掲げる場所。
番いの星が互いを巡り、そして今夜も幕が上がる。

(sm2435563)
(sm3601571)
(sm3581992)


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