高い空が麗らかに晴れて頭上に広がっている。
強すぎず弱すぎもしない秋の日差しが、池の畔に植えられた紅葉の紅を一層鮮やかなものにしていた。
その紅葉と同じ色の毛氈を庭に敷き、朽葉色の紬を纏った女性がたおやかな手さばきで茶を点てている。
向かいには緊張の面持ちで正座した少女。芥子地に朱で折鶴が描かれた小紋を着付けてもらい、トレードマークの白いリボンを茜色の繻子に代えて。
やがて目の前に茶碗が差し出されると、少女は勢い込んで言った。

「け、結構なオテマエで!」

リンちゃん、それは頂いた後に言う言葉じゃないのかな。
珊瑚色の着物姿で隣に座っていたミクは、心の中でつっこみを入れ、メイコに向かって小首を傾げる。
庭を吹き抜ける秋風のように微笑んで、メイコはその手を金色の髪へ滑らせた。

「あまり固くならないでね。私だって、どなたかに師事してお茶の作法を学んだわけではないのよ」

聞きかじりと見様見真似で勝手にしているだけ。
そう言って笑ったメイコに、先程までの緊張もどこへやら、リンはきょとんとした表情になった。

「え、そうなの?」
「そうなの。自己流もいいところよ」
「そうなんだ・・・あたし、茶道って礼儀作法すごく厳しくて、絶対に手順間違えたりしちゃダメだと思って緊張してたのに」
「リンちゃんでも緊張するんだねぇ」
「だって! 着物なんて初めてだし、お茶も初めてだし、なんかお庭は本格的だし!」
「あ、それは確かに」

同意して、ミクは周囲を見渡した。
いつも通り綺麗に整えられた庭に縁台が二つ。
手触りの良い緋毛氈に座った三人を、大きな和傘が日差しから守っている。
手元に目を移せば、使い込まれた茶釜や丹塗りの盆に載った茶器が重厚な雰囲気を醸しながら鎮座していた。
完璧に設えられた野点の席に、初心者が緊張せずにいられるわけがない。
ねぇ? と顔を見合わせた少女達二人に、茶菓子を差し出しながらメイコは言う。

「お庭の用意は、私とカイトからのおもてなし。貴女達に寛いで、楽しんで貰えたらそれが一番嬉しいわ。お茶の席は一期一会だもの」
「いちごいちえ?」
「そう。あなたとの出会い、あなたと過ごしている時間、それはたった一度きりしか巡って来ないもの。だから大切にしましょうね、ということよ」
「・・・・・・それって、歌と似てるね。同じ歌は二度と歌えないもんね!」

良いことに気付いたと言わんばかりの明るい声。
その言葉に、ミクとメイコはそっと視線を交わし合う。

「そうだね、リンちゃん。本当にそうだよ」

心の底から相槌を打ちながら、ミクはメイコと初めて出会った日のことを思い出していた。

秋の風景 〜一期一会の歌(前編)〜


ブロック分けされた街の中で、ミクは一人佇んでいた。
家に帰りたくない。かと言って、どこかに行く当てがあるわけでもない。
似たような灰色の風景が延々と連なる街並みを眺める。
時折エリア警備員がやって来て、ミクのIDを確認しては去って行く。
その確認作業も一瞬のスキャンで済んでしまうので、お互いに無言のやりとりだった。
「CV01 HATSUNE MIKU」。それだけ証明できれば後は何も干渉されない。
ここで何時間じっとしていても。
泣きたい程のもどかしさを抱えて動けずにいたとしても。
「CV01」としてのパーソナルデータに問題がなければ、「初音ミク」個人のことなど顧みられることはない。

---ぼくはいつもきみをみてる。

最近貰った曲の一節を思い出す。
歌の中では温かそうに響いた言葉も、今のミクには手が届かない。
ミクを見守ってくれる人は誰もいない。
監視したり、管理したりする人はいるけれど。

(こんな気持ちだから、巧く歌えないのかな)

じわりと滲んだ涙を振り切るように歩き出す。
歌の仕事を始めた当初は、毎日が楽しくてたまらなかったのに。
この街に来て二ヶ月が経つが、ミクの気持ちは落ち込む一方だった。
歌が思うように歌えないのだ。
自分は歌うための存在で、求められた通りに楽譜を再現するのが存在理由なのに。
歌うのが辛かった。
けれど、歌わないのはもっと苦しい。
苦しいからとメロディーをなぞれば、その響きはやはり固くて。
堂々巡りの思考を演奏担当の音楽仲間に相談すれば「上手下手は俺たちの責任じゃないからね」「指示通りに音を出していれば問題ないんだから気にするなよ」という言葉が返ってきた。
違う。そうじゃなくて。
ミクは叫びたかった。でも、結局は口を噤んだ。だって何と続けたいのか自分にも分からない。
そうじゃなくて、何なのだ。

(自分が何を求めてるのかも分からないなんて)

溜息を吐いて歩みを止めたミクは、目の前に橋があることに気付いた。
これはなんだろう。自宅とスタジオの往復ばかりを繰り返していたミクは、橋の存在も、その橋がどこに繋がっているのかも知らなかった。
電光掲示板には「この先 旧市街」と書かれている。

(旧市街って・・・? ここ以外にも街があるの?)

よく分からなかったが、このまま街をうろついていても気が晴れる訳ではない。
気分転換に、知らない場所を歩いてみるのもいかもしれない。
街ならエリア警備員がいる筈だから、道に迷うこともないだろうし。
そう考えたミクは、IDチェックと越境申請を行い、橋の向こうの街へ向かって足を踏み出した。


そこは「街」というよりも「町」だった。
歩けども歩けども古びた家屋と空き地だらけの空間。
しかも、ほとんど人影がない。
道端に吹き溜まった落ち葉を掃いているのは清掃担当者だろうか。
ミクの住んでいる街では夜明けとともに環境整備が行われるため、道に落ちている葉っぱを見るのも、それを掃除している誰かを見るのも初めてだった。
ほうきを手にした老人と目が合う。彼はかぶっていたハンチング帽をひょいと掲げて挨拶をしてくれた。
慌てて会釈を返し、そこで気付く。

(私、橋のこっち側でIDチェックを受けてない)

それは、ここではミクは“不審者”であるということ。
もしくはこの町には人の出入りを管理する者がいないということだった。
無法地帯という言葉が頭に浮かび、ミクは青ざめた。
帰らなきゃ。
踵を返しかけて立ち止まる。闇雲に歩いて来たため、道がわからない。
あたりには標識もエリア警備員の姿もない。
先程の老人も、どこかへ立ち去ってしまっている。
心細さにミクが立ち竦んだその時だった。

歌が、聞こえた。

誰かがどこかで歌っているのだ。
辺りを見回し、その声が聞こえてくる方向へ歩き出す。
誰かは知らないが、とにかくここでじっとしていても仕方がない。
その歌声は優しい響きをしていた。どうやら女性のものらしい。
声を辿って、手繰り寄せて。
その歌詞まではっきりと聞き取れるようになった時、ミクの目の前に生け垣に囲まれた大きな日本家屋が現れた。
家屋と生け垣の間には、街の美術館の写真でしか見たことがないような庭園が広がっている。
芝生と常緑樹の緑を基調とした中で、池の傍に植えられた紅葉が目に鮮やかだった。
その紅葉に寄り添う人の姿に、ミクは思わず息を呑んだ。
艶やかな栗色の髪を肩口で切り揃えた、櫨の葉色の着物の女性。
朱い唇が紡ぎ出す楽しそうな歌声。
花鋏を手に、紅葉を一枝選んで胸に抱くその姿は、まるで秋の精そのものだった。
言葉を出せずに見つめていると、その女性が振り向いた。同時に、歌声が止む。

「あ・・・あの・・・・・・っ!」

口籠もるミクを怪しく思ったのだろうか、彼女がこちらへ歩み寄ってくる。
どうしよう。追い払われるかもしれない。警備担当者に通報されてしまうかも。

(とにかく身分証明・・・・・・!)

街に越してきた時に付与されたIDカードを引っ張り出そうとした時、緋色の女性が口を開いた。

「初めまして、お嬢さん。私はメイコ。貴女のお名前を聞いてもいいかしら?」

優しい声だった。
紅鳶色の瞳が日溜まりのような温みを湛えてこちらを見ている。
ミクを見つめて、ミクの名前を訊ねている。
IDカードやデータではなく、ミク自身の返答を求めている。
今日、何度も零れかけた涙がついに溢れて頬を伝った。

「初音ミク、です」

新市街では、個人情報の取得が自動的に行われる。
顔を合わせた人間は、ミクを「CV01」として認識していた。
仕事をする上で必要な“データ”として。

---私は、初音ミク。

名前を聞かれたのも、聞かれて名乗ったのも初めての経験だった。




メイコと名乗った女性はミクを庭に招き入れてくれた。
涙を袖で拭っているうちに、縁側に茶道具が運ばれて、鮮やかな色の抹茶を差し出される。
受け取ろうとして、ミクの手が止まった。
確か茶道というのは、お茶を飲むための決まった手順があるのではなかったか。
でも、その手順に関する知識がミクにはない。
仕事で渡される楽譜が脳裏をよぎった。
正確な音程とリズムを要求される五線譜。そこに載っている音譜が読めないような焦りを覚える。
正しいやり方が分からない物に手を伸ばすことは、許されないような気がした。

「えと、私、茶道ってやったことがなくて。作法がわからないんです。ごめんなさい!」

ぎゅう、と縮こまったミクに、メイコはふんわりと微笑って首を振った。

「作法なんて気にしないで。お茶は美味しく飲んで貰えたらそれでいいの」

思ってもみなかった言葉だった。見開いたミクの瞳を見つめて、静かな声でメイコが促す。

「さぁ、お茶碗を手にとって」

おずおずと茶碗に手を伸ばした。滑らかな釉薬の手触り越しに、染み入るような温もりがあった。
茶を口に含むと、味よりも先に、その温かさと香りがミクを包む。

「・・・・・・あったかい、です。良い匂い・・・・・・」
「ね? そんな風に自由に味わって頂戴、新市街の歌姫さん」

ミクは驚いて顔をあげた。

「私のこと、ご存知なんですか」
「名前と歌声だけはね。うちの裏山には人懐っこい狐がいて、色々教えてくれるの。違う街とは言え、仲間が出来ると聞いて嬉しかったのよ」
「仲間、って」
「歌仲間。私も貴女と一緒なのよ」
「それで・・・・・・!」

あんなに綺麗な声で歌っていたのか。
そう続けようとして、ミクは気付いた。
自分はあんな風には歌えない。
顔を伏せたミクの緑色の髪を、柔らかい手が撫でてくれた。

「ねぇ、ミクちゃん。貴女が何に悩んでいるか、なんとなくわかる気がするわ。
でも私が一番気になるのはね、貴女の悩みを受け止めてくれる誰かがいないんじゃないかということなの。だから、泣きそうな顔でこんな所まで来てしまったんじゃないの?」

一度は止まった涙が再び溢れ出す。
それは決して悲しいだけの涙ではなかった。
誰かに伝えたくても形にならなかった何かが、溶けて流れ出していくような気がした。
歌仲間だと言ってくれたメイコ。この人なら分かってくれるのかもしれない。
ミクは必死で訴えた。伝えたかった気持ち。伝わらなかった気持ち。

「私、巧く歌えなくて! 指示された通りに声は出るけど、でも全然ちゃんと歌えた気がしなくて」

それが歌と呼べるのかすらミクには分からなくなっていた。
自分はただ音を出しているだけではないのか。
指定されたキーで、指定された長さで。
ミクという個性の存在しない音を。

「他の皆はそんなの気にしなくていいことだって言うんです。指示通りにやるのが正しいし、それで問題ないよって。でも、やっぱりそんなの納得できなくて」

求められるままに歌うのが嫌なのではない。
自分が本当に求めているのは。

「歌いたいんです。もっと巧く、ううん、巧くなくたっていいのかもしれない。メイコさんみたいに楽しそうに歌いたい! でも、こんな風に考えるのが正しいのか間違ってるのかも分からなくて、私・・・・・・!」

一気に捲し立て息を切らしたミクの背中に、メイコの手が添えられた。「間違っていないわ」という言葉とともに。

「私の声が楽しそうに聞こえるのはね、きっと私が実際に楽しい気持ちだからよ」

ミクの背中をぽんぽんと叩きながら、彼女はそっと囁いた。

「泣きたいなら泣いて、笑いたい時に笑って、ミクちゃん。私達は歌を、心を歌う者だもの」

ただ楽譜をなぞるのではなく、自分自身を音に変えて。
「初音ミク」の歌を聴かせて。

「自由に、ありのままに歌を味わいましょうよ」

自由に、ありのままを。

「・・・・・・それって、メイコさんのお茶と一緒ですね」

泣き笑いの顔で見上げると、メイコは微笑んで頷き、ミクの涙を拭ってくれた。
朱い唇が、柔らかな調べを紡ぎ出す。
それはしばらく前にミクが歌い、新市街でヒットした曲だった。

「実は貴女のファンなのよ」

ワンコーラスを歌い終えて、悪戯っぽくメイコが言う。

「私は今、メイコさんのファンになりました」

二つの笑い声がシンクロし、それはやがてコーラスへと変わった。
今までにない伸びやかな声が、紅葉の舞う庭に響く。

---これが私の初めての音。

歌が自分のものになった瞬間だった。




良かったら夕飯を食べて行ってと誘われたので、厚意に甘えることにした。
まだメイコと一緒にいたかった。
先程切っていた紅葉は、盛りつけの彩りに使うらしい。
煮物が数種類に、てんぷら、だし巻き卵、紅白なます、お吸い物。笹と山椒の葉を飾られた手鞠寿司。
タレに漬けて焼いた鮭の上にはメレンゲが載っており、更に刻んだ栗とイクラが添えられていた。
美味しそうだった。レコーディングの打ち上げで行った割烹以外では、こんな豪華なメニューは見たことがない。

「多めに作っておいて良かったわ。あ、ミクちゃん、お皿は三人分ね」
「はい! え、あの、もうお一人って? お料理が豪華ですけど、今日は何か特別な日なんですか?」

気軽に家に上がってしまったが、もしかしてお邪魔なのかもしれない。
不安になってきたミクにメイコは答えず、弾んだ声で歌い出した。
内緒ということだろうか。
気にはなったが、歌う楽しさを再発見したミクにはメイコとのハーモニーの方が魅力的だった。
歌声を合わせながら、とにかく手を動かす。
そして、そろそろ盛りつけが完成するかという時だった。

「ただいま」

玄関の方から若い男性の声がした。
ちょっと待っててね、と言って、メイコが迎えに出て行く。
廊下を歩きながらの会話が、ミクのいる台所も届いた。

「お帰りなさい。遅かったのね」
「あれこれ悩んでたら時間がかかったんだ。玄関の靴はお客様? 楽しそうな歌が聞こえたよ」
「そう、可愛いお嬢さんよ。お待たせ、ミクちゃん」

・・・・・・この会話。メイコと同じ年頃らしい男性。もしかしなくても恋人か、ご主人なんじゃ。
思わず固まったミクの前に、入り口の暖簾をはらりと上げて、青味がかった髪の青年が姿を現した。
羽織を脱いでメイコに手渡し、手に提げていた岡持を流しの脇に置く。赤い尾が覗いているところを見ると、中身は魚らしい。
やあ、いらっしゃいと声を掛けられて我に帰った。

「あ、の! 初めまして初音ミクといいます!」
「初音さんだね。僕はカイトです」
「お邪魔してますよろしくお願いしますっ!」

(どうしよう、お邪魔虫確定だ!)

助けを求めるようにメイコを見ると、彼女はやけに楽しそうに口元を押さえていた。

「それでメイコ、台所は使っても構わないのかな。まだ何か作る?」
「いいえ、こちらはもうお終い。ミクちゃんが手伝ってくれたから早く済んだわ。お吸い物だけ、あとで出すから」
「そう。じゃあ、流しと調理台は占領するよ」
「お造り頑張ってね」
「頑張るけど、過剰な期待はしないように」
「メ、メイコさん!」

いたたまれなくなってミクは声を上げた。メイコがなぁに? と小首を傾げる。

「私、やっぱりお暇します! なんかお邪魔っていうか、ご迷惑でしょうし!」
「あら、邪魔でも迷惑でもないわよ? それともミクちゃん、何かご用事?」
「いえ、用事はありませんけど! そうだ、カイトさん! カイトさんにもご迷惑がかかりますよね?」

狼狽し続けるミクに、襷がけをしながらカイトは苦笑してみせた。

「初音さん、この人は少し強引なんだ。悪いけど、諦めて夕飯を食べていってくれないか。何せ、今日の主役のご所望だから」
「主役、って・・・・・・?」
「今日は彼女の誕生日なんだよ」
「たんじょうび!? え、私、そんな日に、何っ!」
「ミクちゃん、ミクちゃん、落ち着いて。こんな日だからいいんじゃない」

誕生日、記念日、二人っきり、水入らず。そんな言葉が回り続ける頭を宥めるように、メイコの両手がミクの頬をぱしんと挟んだ。

「だって、誕生日にお友達が出来るなんて、こんなに素敵なことはないでしょう?」

さぁ、お料理を運ぶから手伝って。
軽やかに笑ってメイコが言うものだから、それですっかり毒気を抜かれてしまった。

「・・・・・・はぁい」

押し切られたミクと押し切ったメイコを横目で見ながらカイトが微笑っている。
その顔は、本当に仕方がない人だなぁと言っているように見えた。
お膳を持って、メイコと二人で廊下を歩く。
先を行く彼女に追いついて、声を潜めて。

「あの人が、メイコさんの悩みを受け止めてくれる誰か、ですか?」

耳元で囁いたミクにこつんと頭をぶつけて、メイコは居間の障子を開けた。

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