夢の風景(前編)

寒い。
そして暗い。

物の輪郭すら見て取ることができない闇の中、何かに追い立てられるようにして歩きながら思う。
どうして自分はこんなところにいるのか、と。
誰も通らず明かりも灯らず、夕日はそっぽを向くようにして町並みの向こうに隠れ、自分を一人置き去りにする。
かつてこの道はこんなにも寂しかっただろうか。
少し前まで、行き交う人々の挨拶と、点々と連なる軒先の明かりに見守られながら家路を辿っていた記憶があるのに。

ひたひたと忍び寄る濃密な夜の気配。
あざ笑うように風が吹き抜け、手足に噛みついては温もりを奪う。

目頭にじわりと滲んだ涙が視界を更に不明瞭なものにし、全てが闇色に塗りつぶされていく。

いま、自分は一人。
たった独り、この世界に取り残されてしまった------

夢の風景(前編)

喘ぐような呼吸を自覚して、それでようやく目が覚めた。
先ほどまで感じていた凍てつく空気はどこにもなく、体は柔らかな寝具に包まれている。
周囲は薄暗いが、それは夕闇によるものではない。
暁の、太陽を待つ朝の暗さだった。
怯える必要はない。
これから明るくなっていく空を信じていればいいのだ。
安堵した瞬間、ミクの両目から涙が溢れて頬を伝う。

------“ミクの”両目から。

そしてようやく、自分は夢を見ていたのだ、と気づく。
あの夢は一体何だったのだろう。
少なくともミクは、あれ程までに暗く、寒く、寂しい場所に行ったことはない。
ならば夢の中で心細さと寒さに震えていたのは誰だったのだろう。

枕に顔を押しつけて、ミクは嗚咽を堪えた。
隣にはリン、その向こうにはレンが横になっていて、安らかな寝息をたてている。
泣き声で起こしては可哀想だ。
そう思うのだけれど、涙は一向に止まってくれない。
ミクは震える手の甲で唇を押さえつけた。

鮮明になっていく意識が、ここがメイコとカイトの屋敷であること、リンやレンと一緒に泊まりに来たこと、眠る直前まで三人でお喋りをして、夜が明けたらまた遊ぼうと約束をして眠りに落ちたこと、数々の幸せな記憶を呼び覚ましていく。
体の内側に残る悪夢の残り香を追い出したくて、ひとつひとつ“ミク”の幸せを手繰りながら、同じ数だけ呼吸を繰り返した。
吸う。そして吐く。
この家に満ちている静謐で柔らかな空気を。

寝間着の袖で涙を拭ったその時、微かな足音が聞こえた。
冬の朝の訪れよりも静かに近づいてくるそれが誰のものか、ミクは知っている。
ミクが泣いていることを知れば、心配をかけてしまうということも。
ぎゅう、と布団の中で身を縮こまらせたミクに、障子を開ける音と、次いで畳を踏む人の気配が伝わった。
その人は部屋の奥へと歩みを進める。
密やかな吐息は、笑ったせいだろうか。
次いで聞こえた衣擦れは、双子の寝相を直して、奔放に飛び出した腕や足を布団に納めてくれているのかもしれない。

次はきっと私の番。
ミクは一層体を丸めて、顔を掛け布の陰に隠した。
自分の布団は特に乱れていないので、彼女はそのまま出ていくだろう。
それまでじっとしていなくては。

涙を堪える。
息を詰める。
足音は障子の方へと戻っていく。
このまま通り過ぎて。
気づかないで。
気づかないで。

でも本当は。

------見つけてほしい。


「大丈夫よ」

肩の辺り、布団越しに手が置かれた。
二、三度宥めるように腕をなぞったその掌は、頭を撫で、そして熱を計るように額を覆う。
せき止めていた嗚咽が再び喉を震わせる感覚。
見抜かれていた。
見つけてくれた。
抑えきれない感情がミクの頬を濡らしていく。

「大丈夫。怖い夢は、もう追いかけて来ないわ」

静かな囁きが朝の陽射しのように心に差し込み、霜を溶かすように悪夢の残滓を消し去っていく。
はい、と涙声で頷くと、優しい手が涙の川を辿り、そっと頬に添えられた。
その手に自分の手を重ね、ミクはもう一度、夢の中の誰かを思った。

ひとりぼっちで寒さと夜の闇とに怯えていたあの誰かも、明るい場所にたどり着けただろうか。
優しい人に見つけて貰えただろうか。
今のミクと同じように、温かい手に守られているだろうか。
そうであって欲しい、と。

------夢の中で泣いていた“誰か”も、今はきっと幸せならいい。

メイコの手を握る指と同じ強さで願いながら、ミクはもう一度瞳を閉じた。

 

 

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