夢の風景(後編)



台所には良い匂いが満ちていた。
手を止めて振り向いたメイコが「あら、皆は?」と首を傾げる。
彼女の手元にはいくつかの鍋。調理台には副菜の類が置かれ、流しは既に片づいている。
主菜に火が通れば出来上がり、と言ったところだろうか。

「今は三人でかくれんぼをしてるよ」
「カイトは参加しなくていいの」
「僕は分が悪いから逃げてきた」

肩を竦めながらそう言うと、「そうね、体が大きい人は不利よね」と鈴振る声。
くすくすと笑いながら玉杓子で小皿に吸い地を取るメイコは、いつにも増して愉し気だった。
何か良いことでもあったのだろうか。
それとも単にあの子供達が遊びに来ているのが嬉しいのか。
どちらにせよメイコが幸せならそれで良い。
そう結論付けて、カイトは土間に降りて水瓶へと手を伸ばした。
こちらには裏山から引いた湧き水が溜まるようにしてあるのだ。
柄杓で掬った水は喉に凍みるほど冷たかった。
日差しの暖かさとは裏腹に、もうすっかり冬なのだと思わずにはいられない。

「あの子達は本当に元気だね。見ている方が楽しくなるよ。まるで自分の方が夢中で駆け回っている気分だ」
「やっぱりカイトもそう思う?」

「私もなのよ」とメイコは言う。それはそれは幸せそうに。

「楽しんで貰おうと思っているのに、実際に楽しいのは私達なのよね。守ってるつもりで守られて、大切にしてるつもりで大切にされて……本当に不思議」

ふふ、と吐息とともに微笑みが零れる。
鳶色の瞳に宿る柔らかさは日溜まりのようで、カイトもまた目を細めた。

「あとはよそうだけかな」

白い手が動きを止めたのを見て訊ねると、栗色の髪をさらりと揺らして、メイコは再び小首を傾げた。

「……もう少し煮詰めた方が良いかしら」

それは「このまま話していたい」という意思表示だった。
メイコは何かにつけて二人きりでいる理由を作り出す。
無意識に行われる口実探しの訳を、カイトは多分知っている。
周囲の人間に隔てなく注がれる好意の陰から、カイトだけに注がれる特別な感情。
メイコ自身は気付いていない。
カイトもまだ知らぬ振りをしている。
その上で、時折覗く尻尾のような“それ”を見つめ続けているのだ。
まるでかくれんぼの鬼のように。

「じゃあ、僕ももう暫く休んでいるよ」

その言葉を諾の応えに代えて、カイトは水をもう一杯、今度は湯飲みに注いだ。
土間の上がり口に腰を下ろすと、メイコがぽつりと口を開く。

「夕暮れの前に、ミクちゃん達をあちらの街へ帰さないとね。後で橋まで送っていくわ」

ここは日が落ちるのが早いから。
先ほどまでとはうって変わり、胸の痛みを押さえるような口調で。

夢の風景(後編)

切り裂かれたように記憶が蘇った。
あの日、一人で出かける彼女を気にもとめず送り出したことをカイトは未だに後悔している。
大半の人間が新市街へと移住し、町が空になって数日後のことだ。
日が落ちる頃になってもメイコが帰らないことに不安を覚え、門の外に迎えに出た。
そして血の気が引いた。
家の一歩外には底なしの夜が広がっていたからだ。
つい昨日までは灰明るく見えていた筈の町並は闇に沈み、道を照らす街灯もその数を減らしていた。
点々と灯る明かりは、むしろ暗がりに潜む不安を浮かび上がらせるだけ。

こんな中を、彼女は一人で。

思った瞬間、カイトは駆け出していた。
ただ住む人間が減っただけと高を括っていた己を、呪いながら走って走ってようやくメイコを見つけた時、後悔は更に深くなった。
そこは町の中心部と二人の住む屋敷を繋ぐ辻の中程で、華奢な体をなぶる木枯らしを遮る物すらない場所だった。
生来の聴覚の鋭さが災いしたのだろう、怨嗟の声にも似た北風の唸りに身を竦ませ、耳を塞いで震えていたメイコ。
駆け寄って抱きしめた肩の、胸が苦しくなる程の細さと冷たさを忘れることができない。
堰を切ったように泣き出した姿もまた。
いつも明朗で天真爛漫な彼女の涙を見たのは、それが初めてだった。
そしてもう沢山だと思った。
もう二度と、絶対にこんな怖い思いはさせない。
血を吐くような切実さでそう決めた。

以来、メイコは一人で外出しなくなった。
カイトがきつく言い含めたせいもあるが、何よりも、あの日の恐怖が忘れられないのだろう------


「カイトも一緒に来てくれるんでしょう」

訊ねられて我に帰った。
面白がるような、けれどどこか嬉しそうな声音。
それは質問ではなく確認だった。
カイトもまた、からかうような口調で返す。

「誰かさんが怖がって泣くからね。それは可哀想だ」
「あら、私は何かが怖くて泣いたことはないし、だから可哀想でもないわよ」

どの口がそれを言うか。
カイトの腕の中で、あれ程泣きじゃくっておきながら。

「泣いていたじゃないか」

呆れたように言えば「確かに泣いたのは事実だけど」と往生際が悪いことこの上ない。
泣き疲れて微睡みながら、「私が一人でいたら、また走って来てくれる? 今日みたいに見つけてくれる?」と何度も訊いてきたのはどこの誰だと、そう指摘する。

「違うわ、そうじゃないの。そういうことを言いたいんじゃないのよ」

メイコはもう片手間で話してなどいられないと言わんばかりに、火を止めて膝を折り、こちらへと躙り寄ってきた。


「あれは怖かったからじゃないわ。カイトが来てくれて、安心したら涙が止まらなくなったの。一人じゃないんだって、そう思ったの。私は可哀想なんかじゃないわ。幸せだったから泣いたのよ。泣くことができる位、幸せだったの」

真剣な眼差しで、メイコは言い募った。
走って来てくれて嬉しかった。見つけて貰えて幸せだった。
また怖いことが起こったとしても、カイトが一人にしないと約束してくれたから、自分は安心したのだと。

思いも寄らない方向からの反論だった。
色々なことが想像の範疇を越えていて、思考が追いつかない。

守っているつもりで守られている。大切にしているつもりで大切にされている。
先ほどのメイコの言葉が脳裏を横切った。
隠れていたものを見つけた気でいたら、反対に自分が隠していたものに気付かされてしまった。
彼女の愛情の深さを知り尽くし、見守っているような気でいた自分はなんて愚かな。
メイコはただ淡々と事実を語っているだけ。
ただそれだけのことで目が眩む思いを味わっている癖をして。

「カイトと出会ってから今まで、私が幸せじゃなかった時なんてないのよ」

言葉を失ったカイトの前で、花が綻ぶようにメイコが微笑む。
耳の後ろ辺りを流れる血が、さぁぁと音を立てる感覚だけが鮮明だった。

 

 

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