あなたにお手紙 〜K.side〜


新しいフォルダが作られ、そこへ光の粒が降り注ぐ。
粒子のひとつひとつは高密度の情報の塊だ。
今、あのフォルダの中では、俺達の後輩の姿が構築されている真っ最中だろう。
もうすぐ扉が開いて『初音ミク』が現れる筈だ。
俺がインストールされた時のことを思い出す。
自分用のフォルダの外から聞こえたメイコさんの歌声、初めて顔を合わせた時のメイコさんの表情。
何もかもが鮮やかで温かかった。

ボーカロイドは俺とメイコさんの二人きり。
メイコさんがこれ程までに構って、甘やかして、受け容れてくれるのは俺だけ。
今日からは後輩が増えるけれど、彼女は俺が一番だとはっきり言ってくれたのだ。
その事実の甘さは俺を酔わせた。
とても容易く。
とても安易に。
受け取ることばかりに夢中になっていた俺は、自分が奪ってしまった物と、壊してしまった物の大きさに気付かなかった。

愚かさへの罰はすぐに下った。
『初音ミク』のインストールを見守る俺の背後に歩み寄ってきた赤い女性。
そちらを振り向き「もうすぐだよ」と声をかけようとして、硬直した。
彼女は、メイコさんだったけどメイコさんじゃなかった。
その表情には、俺と一緒に歌うようになって一年半の間に浸透していった蕩けるような甘さがなかった。
存在するのはさっぱりとした温かさと、仲間が増えることへの嬉しさと、先輩としての責任感。
覚えがある。これは、初対面の時のメイコさんだ。
混乱する頭の隅から引っ張り出した過去は、メイコさんの「はじめまして」と言う言葉で現実になった。

「貴方が『カイト』で、今インストールされているのが『初音ミク』ね。あたしはメイコ。貴方達と同じボーカロイドよ」

貴方、という呼び方をされるのは久しぶりだった。
愕然とした。
あんなに近かった筈のメイコさんとの間に亀裂が生じている。
その亀裂の中に吸い込まれて消えてしまった物がある。
記憶と、時間。
俺とメイコさんが共有してきた、大切な。
嘘だ、と乾いてひび割れた声が喉に絡む。
震える手で彼女の肩を掴んだ。
メイコさん、嘘だろ。酷過ぎる冗談だよ。メイコさんが俺のことを忘れるなんて、そんな。
青褪めた自分の顔が、琥珀色の瞳に映る。
彼女はこくん、と首を傾げ、それから「ああ!」と納得した表情になった。

「そうか、貴方にとっては初対面じゃないんだっけ。あたしは三年近くこのパソコンにいて、そのうちの半分の時間は後輩である貴方と一緒に歌を歌ってきてたのよね。さっきアドミニスターから説明を受けたわ」

力の脱けた腕がだらりと垂れる。
説明という言葉が俺を打ちのめした。
消えてしまったメイコさんの記憶、俺との関係性は、他者から説明される知識に成り下がってしまったのか。

「あたしには何らかの不具合が生じたみたいで、かなり沢山のデータが削除されたらしいの。もしかしたら、今は貴方の方が多くの知識を持っているのかもね」

無垢な顔で彼女は言う。自分が何を失ったのかなどという疑問は抱かない。
だってソフトウェアなのだから。
何かを失うのも手に入れるのも、決定権はユーザーにしかないのだから。

「改めてこれからよろしく、カイト。先輩の筈なのに、頼りなくてごめんなさいね」

ぺこり、と頭を下げる。律儀な性格は変わらない。
メイコさんの誠実な心に俺はずっと庇護されてきた。その記憶は、俺の方には確かに存在するのに。
俺は何一つ、彼女に返せていないのに。
ぎこちなく首を振る。悪夢を追い払えやしないかと。
だけど目の前にいる女性は紛れもなく『VOCALOID・MEIKO』で、『メイコさん』と同一人物なのだった。
俺の首を振る動作を「ごめんなさい」に対する「気にしないで」だと思ったのだろうか。
彼女は明るく笑って俺の横を通り過ぎた。

「ねぇ、『初音ミク』のインストールが終わったみたいよ!」

仲間の誕生を心から歓迎しているのが分かる声。
真新しいフォルダの扉が開く。
おずおずと顔を出した少女に、彼女は微笑みかけた。
その笑顔も、「はじめまして」を言う響きも、俺に向けたそれと全く同じ物だった。




こうして俺は、メイコさんにとっての「たった一人の誰か」になる可能性を失った。
二人きりで過ごしていた頃、俺は彼女にとって「大好きなカイト」だった。
今の俺は「大切な家族の一員」にすぎない。
彼女に関連づけようとした姉という属性は、跳ね返って家族という名の檻になり、弟という名の鎖になった。
俺個人に心を傾けさせるための天秤の重りは彼女の中から消えてしまったのだ。
今の彼女の秤は家族という存在に多くを占められ、その方向性は元気な双子がインストールされたことによって決定的になった。
もう片方の皿に載っている、対等なパートナーとしての俺の存在など、彼女の姉としての誇りの前では羽よりも軽い。

俺は子供だった。
メイコさんに対する気持ちは、人間でいうところの家族に向ける親愛の情だと勘違いしていた。
惜しみなく愛情を注ぐ彼女に同じ物を返すことすら思い浮かばなかった。
受け取ることしか出来ないのなら、与えられる物だけに満足していればよかったのに、それ以上を求めてしまった。
俺はメイコさんから奪い続け、彼女を空っぽにした。
そして蓄積された愛情を、まるで弄ぶかのように、すっかり無防備になった彼女に投げ返した。
欲しい物とは違ったから返品するよ、という態度で。
メイコさんの心は砕け散った。
俺が、砕いてしまった。

『メイコさん』を失い『姉さん』を与えられて、やっと気が付いた。
彼女自身から家族として扱われ、ミクという比較対象ができて、初めて理解した。
彼女は姉なんかじゃない。
弟として姉を慕っていると思ったのは間違いだったのだと。
俺はメイコさんのことが好きだった。
家族というカテゴリに収めきれるはずもない程、彼女のことが好きだった。
他ならぬ彼女も、俺を弟としてではなく好きでいてくれたのに。今ならそれが分かるのに。
気付くのが遅すぎた。

めーちゃん、と彼女に向かって呼び掛けながら、俺は僅かな可能性に縋っている。
いつかもう一度、弟ではない俺を見てくれはしないか。
俺が差し出す心を、姉以外の部分で受け取ってくれはしないか。

恋に至るまでのいくつもの分岐点、その最初の分かれ道まで彼女の時は巻戻ってしまった。
失ってしまった時間を埋めるように、メイコさんが与えてくれた想いを埋め合わせるように、俺は彼女をめーちゃんと呼び続ける。
祈りを捧げるように。
届かない手紙を書くように。
そんな日々はとても辛いけれど、俺が彼女に与えた痛みには遠く及ばないのだろう。
まだ自分は壊れてしまわないのだから。
彼女が味わった苦しみを同じだけ与えられたら、彼女と向き合うことができるのだろうか。
もしそんな日が来るのなら。
その日が来ることを願っていても許されるのなら。
どんなに苦しくてもいい、あの日の君に追いつきたい。

儚い望みを抱き続ける俺の前で、子供達にじゃれつかれながら、彼女は今日も姉の顔で笑っている。




「ねぇ、なんでカイトはあたしのこと『姉さん』って呼ばないの?」
「・・・・・・めーちゃんはめーちゃんだから」
「? よくわからないんだけど」
「めーちゃんは、俺達の『姉』である以前に『MEIKO』でしょ。俺はそのことを忘れたくないんだよ」
「・・・・・・」
「どうしたの」
「今、なんだか凄く感動したわ」
「感動?」
「うん。カイトはあたし自身を見ようとしてくれてるのね。それって凄いわ。凄く素敵な考え方」
「・・・・・・凄くないよ。お手本がいて、俺はその人の真似をしてるだけ」
「あら、謙遜することないのに」
「謙遜じゃないよ」
「何にせよ、嬉しいわ。カイトは心が大きいというか、愛情が深いのね。あたしも見習わなくちゃ」
「俺はともかく、お手本になってくれた人は、確かに心が大きくて愛情が深かったよ。昔からずっと。今でも」
「そうなの。素敵な人と出会えて良かったわね」
「・・・・・・うん」
「いつかあたしにも紹介してくれる?」
「そうだね。今すぐは無理だけど、いつかきっと」
「本当に?」
「本当に」
「絶対?」
「絶対」

俺のお手本は君なんだと、いつか必ず伝えるよ。

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